片岡千恵蔵の内弟子とは? わかりやすく解説

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片岡千恵蔵の内弟子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 08:53 UTC 版)

大西秀明」の記事における「片岡千恵蔵の内弟子」の解説

1923年大正12年5月3日京都府南桑田郡亀岡町現在の同府亀岡市)に生まれる。 1938年昭和13年3月旧制亀岡尋常高等小学校現在の亀岡市立亀岡小学校)を卒業その3年後の1941年昭和16年)、京都太秦日活京都撮影所(のちの大映京都撮影所)に入社俳優課に配属される。「持ち前明る人柄」を評価され前年に自らのプロダクション解散して日活入社して当時同社看板スターだった片岡千恵蔵の内弟子になる。やがて第二次世界大戦突入し1942年昭和17年1月27日戦時統合により日活製作部門は他の2社と統合して大日本映画製作(のちの大映)を設立するが、大西新会社継続入社している。記録に残るもっとも古い出演作は、大戦末期1945年昭和20年4月22日公開され市川右太衛門主演作紅顏鼓笛隊』(監督木村恵吾1953年『暁の鼓笛隊』と改題)、あるいは同年7月12日公開され片岡千恵蔵主演作東海水滸伝』(監督伊藤大輔稲垣浩1952年東海二十八人衆』と改題)であり、俳優時代大西本名三郎名乗っていた。 終戦後引き続き大映京都撮影所俳優課に籍を置き、1946年昭和21年8月15日公開され片岡主演作手袋脱がす男』(監督森一生)等に出演するほか、同年12月31日公開され片岡主演作七つの顔』(監督松田定次)に始まる「七つの顔シリーズ」のアヴァンタイトル大西考案、これが採用されている。この時期、『歩く人生』、『オレ日本の国に貸しがある』等の脚本執筆した1948年昭和23年10月同社社長永田雅一舌禍により、同年12月28日公開された『三十三の足跡』(監督松田定次)を最後に片岡同社退社、翌1949年昭和24年)には東横映画現在の東映)に移籍したが、大西もこれに同行する大西は、片岡主演した『獄門島』続篇の『獄門島 解明篇』に「了沢」の役を得、同2作はそれぞれ同年11月20日12月5日公開された。

※この「片岡千恵蔵の内弟子」の解説は、「大西秀明」の解説の一部です。
「片岡千恵蔵の内弟子」を含む「大西秀明」の記事については、「大西秀明」の概要を参照ください。

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