父子不仲説とは? わかりやすく解説

父子不仲説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:47 UTC 版)

松平信康」の記事における「父子不仲説」の解説

このため近年では、家康信長要求された為というより、家康信康対立原因という説が唱えられるようになった。 『安土日記』(『信長公記諸本の中で最も古態をとどめ信憑性も高いもの)や『当代記』では、信長は「信康殺せ」とは言わず徳川家内情を酌んで「家康思い通りにせよ」と答えている。つまり家康自身事情築山殿信康葬り去ったということである。また、信康処断理由は「逆心(=謀反)」であり、家康信康の間に問題起こったため家康の方から忠次遣わし、嫁の父である信長相談した読み取れる。また『家忠日記』によると、事件起き前年天正6年1578年9月22日に、家康から三河国に対して、(信康のいる)岡崎詰めることは今後無用であるとの指示出されたことが記されている。さらに家康は、信康岡崎城から追放した際、信康岡崎衆の連絡禁じて自らの旗本岡崎城固め、家忠ら岡崎衆に信康内通しないことを誓う起請文を出させており、家康信康の間で深刻な対立があったことが伺える。また『大三川志』には、家康の子育て論として「幼い頃無事に育てえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても、信康は親を敬わず、その結果父子の間がギスギスして悲劇招いてしまった」とあり、『当代記』にも信康家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親・臣下に見限られたとあり、信康性状所以とした親子不和原因であることを伺わせる。 また信康異母弟松平忠輝は、その容貌などから父・家康嫌われ続けたが、忠輝が7歳時に面会した家康次のような発言残している。 「面貌怪異三郎松平信康)ノ稚顔ニタリ」(野史)。 「世に伝ふるは……つくづく御覧し、おそろし面魂かな、三郎が幼かりし時にふところなかりけりと仰せけり」(新井白石『藩翰譜』十一上総介殿」)。 この発言から、信康面影を見いだしたがゆえに家康は忠輝を恐れ嫌ったことがうかがえる関ヶ原の戦い戦況一時不利になった時、家康狼狽のあまり「せがれがいればこんな思いをしなくて済んだ」と口走り(側にいた家臣遅参している秀忠事だ思い間もなくご到着されると思います」と声を掛けたところ家康は、「そのせがれの事ではないわ!」と吐き捨てた)、また晩年には「父子の仲平ならざりし」と親子不和について言及している。

※この「父子不仲説」の解説は、「松平信康」の解説の一部です。
「父子不仲説」を含む「松平信康」の記事については、「松平信康」の概要を参照ください。

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