無我利道場問題とは? わかりやすく解説

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無我利道場問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 13:48 UTC 版)

宇検村」の記事における「無我利道場問題」の解説

詳細は「無我利道場」を参照 1973年東亜燃料工業(現ENEOS)が村内焼内湾にある技手久島石油備蓄基地建設計画したことに端を発し反対派住民招きによって、当時鹿児島県トカラ列島諏訪之瀬島コミューン築いていたヒッピーである山田塊也らが宇検村移住し反対運動展開したその後1984年10月には建設計画撤回されたが、入植者グループ村内久志集落定住しコミューンを「無我利道場」と名付け共同生活営んでいた。1987年頃から入植者グループの子供達が地元小学校登校することを止めたことなどから地元住民との関係悪化しはじめ、村議はじめとする有力者によって「無我利道場解体村民会」が結成された。 1988年8月東京暴力団である松魂塾代表者無我利道場母屋所有権取得し街宣車入植者グループ追い出し図り始めた。(1990年1月にはこの街活動について軽犯罪法違反容疑構成員5名が逮捕された。)、同年10月30日松魂塾構成員ダンプカー無我利道場突入し母屋破壊入植者1名に重傷負わせる。(刑法建造物損壊罪傷害罪で5名が逮捕された。) 1989年9月無我利道場」の共同生活解散し、各世帯での生活を始めたが、その後追放運動続けられたため、1990年7月には入植者グループ追放派の住民損害賠償求め訴え提起した一方1991年11月には追放派の住民らが「平穏に生活する権利侵害されている」として入植者グループ損害賠償求め訴え提起した1993年11月17日鹿児島地方裁判所名瀬支部において入植者グループ地元住民との和解成立し入植者グループ地元社会との相互理解努力すること、地元住民追放運動停止することなどが合意された。 さほど多くもない村民が「入植者グループ」と元の村民が「追放派 」「追放運動拒否派」に分かれ、また他の暴力団人権運動家らの島外者も入り乱れ村内大きな禍根残した事件である。

※この「無我利道場問題」の解説は、「宇検村」の解説の一部です。
「無我利道場問題」を含む「宇検村」の記事については、「宇検村」の概要を参照ください。

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