無我の捉え方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 18:26 UTC 版)
ゴータマは、「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、真人となった修行僧は、『わたしが語る』と言ってもいい」と語ったとされる。これは、悟りに達した者は、我(アートマン)は存在すると主張し、議論しても真理からははずれていないとする見解を示したものである。これによると、無我ということで修行してきた者は、煩悩の汚れを滅ぼしたのちには、真人の我を頼りとして歩むということになる。
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