点字翻案と普及時代とは? わかりやすく解説

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点字翻案と普及時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 02:30 UTC 版)

石川倉次」の記事における「点字翻案と普及時代」の解説

1886年明治19年)、茂原小学校校長として着任して間もない倉次は、小西から楽善会盲唖院への赴任打診される。倉次は当初固辞していたが、小西の「三顧の礼」の要請により、翌1887年明治20年)に上京し盲唖院に赴任する同年、訓盲唖院は東京盲唖学校改称し、倉次は同校助教諭書記着任した。同じ頃、小西ブライユ点字日本仮名翻案するよう研究依頼されている。こうして東京盲唖学校で倉次を中心に教員生徒アルファベット点字日本語五十音翻案する作業進められることになった1889年明治22年)、東京盲唖学校同僚である遠山太郎によってブライユ点字50音で表す6点点字案が発表され触発された倉次はさらに研究深め工夫重ねて3点2行の6点点字の案を考案した1890年明治23年9月多く点字研究者による研究から日本点字決定するための第1回点字選定会が開かれた。倉次案遠山案に、東京盲唖学校生徒伊藤文吉室井孫四郎考案した案の3案が対象となり、その後数十回の実験が行われた。同年11月1日第4回選定会で倉次の案が採用されることに決定し日本点字翻案事業終了した以来毎年11月1日が「点字制定記念日」と制定され記念事業が行われるようになった日本点字完成後も、倉次は東京盲唖学校盲教育携わりながら、採択され直後に「日本盲点字一覧」を全国盲学校配付全国各地出張するなど点字普及活動精力的に行った1894年明治27年)、輸入した点字製版機を用いて日本初点字出版物大婚廿五ノ春ヲ祝シ奉ル(明治天皇銀婚式奉祝歌集)』を発行したまた、1898年明治31年)にはそれまで制定だった点字拗音発表して日本点字完成させ、翌1899年明治32年東京盲唖学校採用された。 1901年明治34年4月22日、倉次が翻案した点字が「日本盲点字」として官報掲載され日本において視覚障害者使用する文字として公認のものとなった。 倉次は点字翻案だけでなく、点字表記するための機器開発にも同時に取り組んでおり、1898年明治31年)に「懐中点字器」を、1904年明治37年)に「イシカハ・タイプライター」として点字タイプライター開発している。 1899年明治32年)、東京高等師範学校教諭訓導任命される1901年明治43年)には東京盲唖学校でも教諭として国語授業受け持っていた。 1910年明治43年)、盲唖分離により東京盲学校雑司ヶ谷新設されたが、倉次は東京聾唖学校教諭として残留して勤続し1925年大正14年)に66歳で同校退職した

※この「点字翻案と普及時代」の解説は、「石川倉次」の解説の一部です。
「点字翻案と普及時代」を含む「石川倉次」の記事については、「石川倉次」の概要を参照ください。

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