点字翻案と普及時代
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1886年(明治19年)、茂原小学校に校長として着任して間もない倉次は、小西から楽善会訓盲唖院への赴任を打診される。倉次は当初、固辞していたが、小西の「三顧の礼」の要請により、翌1887年(明治20年)に上京し訓盲唖院に赴任する。同年、訓盲唖院は東京盲唖学校と改称し、倉次は同校で助教諭兼書記に着任した。同じ頃、小西にブライユ点字を日本の仮名に翻案するよう研究を依頼されている。こうして東京盲唖学校で倉次を中心に教員生徒がアルファベット点字を日本語の五十音に翻案する作業が進められることになった。 1889年(明治22年)、東京盲唖学校の同僚である遠山邦太郎によってブライユ点字を50音で表す6点点字案が発表され、触発された倉次はさらに研究を深め、工夫を重ねて3点2行の6点点字の案を考案した。 1890年(明治23年)9月、多くの点字研究者による研究から日本点字を決定するための第1回点字選定会が開かれた。倉次案、遠山案に、東京盲唖学校生徒の伊藤文吉と室井孫四郎が考案した案の3案が対象となり、その後数十回の実験が行われた。同年11月1日の第4回選定会で倉次の案が採用されることに決定し、日本点字翻案事業は終了した。以来毎年11月1日が「点字制定記念日」と制定されて記念事業等が行われるようになった。 日本点字の完成後も、倉次は東京盲唖学校で盲教育に携わりながら、採択された直後に「日本訓盲点字一覧」を全国の盲学校へ配付、全国各地へ出張するなど点字の普及活動を精力的に行った。 1894年(明治27年)、輸入した点字製版機を用いて、日本初の点字出版物『大婚廿五ノ春ヲ祝シ奉ル(明治天皇銀婚式奉祝歌集)』を発行した。また、1898年(明治31年)にはそれまで未制定だった点字拗音を発表して日本点字を完成させ、翌1899年(明治32年)東京盲唖学校で採用された。 1901年(明治34年)4月22日、倉次が翻案した点字が「日本訓盲点字」として官報に掲載され、日本において視覚障害者が使用する文字として公認のものとなった。 倉次は点字の翻案だけでなく、点字を表記するための機器の開発にも同時に取り組んでおり、1898年(明治31年)に「懐中点字器」を、1904年(明治37年)に「イシカハ・タイプライター」として点字タイプライターを開発している。 1899年(明治32年)、東京高等師範学校の教諭兼訓導に任命される。1901年(明治43年)には東京盲唖学校でも教諭として国語の授業を受け持っていた。 1910年(明治43年)、盲唖分離により東京盲学校が雑司ヶ谷に新設されたが、倉次は東京聾唖学校に教諭として残留して勤続し、1925年(大正14年)に66歳で同校を退職した。
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