災害報道と義援金
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 06:52 UTC 版)
「1888年の磐梯山噴火」の記事における「災害報道と義援金」の解説
明治維新以降、日本では規模の大きな災害は発生していなかった。磐梯山噴火は日本の近代における最初の大災害であった。磐梯山噴火に際しては、明治以降、欧米から日本に入ってきた電報や鉄道が大いに活躍することになった。そして写真や幻灯といった視覚に関わる技術が、報道や磐梯山噴火に関する講演で使用されるなど、様々な近代技術が初めて駆使されることになった自然災害でもあった。また明治20年代に入り、新聞、雑誌といった新しいメディアは急速にその発行部数を伸ばしていた。 磐梯山噴火の第一報は電報によりその日のうちに東京まで届けられた、日本鉄道は噴火の前年の1887年(明治20年)には鉄道路線を宮城県塩竈まで延ばしていた。噴火後の磐梯山には報道関係者が鉄道で訪れ、それぞれのメディアの特色を生かした報道を繰り広げた。鉄道は現地取材に要する時間の著しい短縮化をもたらし、報道に速報性が見られるようになった。そして磐梯山噴火についての報道の中で、試行錯誤をしながらも揺籃期であった映像技術が活用された。 また、江戸時代の幕藩体制のもと、これまでの災害対応は被災した藩内など基本的に地域の中で行われてきた。それが磐梯山噴火では初めて本格的な新聞による災害義援金募集が行われるなど、国民的な関心事として災害救援が行われるようになり、日本の国民意識を育てる一つの契機になった。また戊辰戦争時には朝敵とされた会津で起きた大災害に皇室からの義援金が下賜されたり、政府も災害対策に乗り出すなど、国民に近代国家のあり方を示すことにも繋がった。
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