演出家への転身
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新宿ムーランルージュでの1年が過ぎた1935年(昭和10年)、巣鴨に撮影所をもつ、河合徳三郎の大都映画に入社、主演映画『鶉の旅』に松山 宗三郎の名で出演し、同作は同年1月25日に公開された。大都映画で剣戟スターとして活躍する一方で、1937年(昭和12年)、山本嘉次郎、木村荘十二、大谷俊夫がピー・シー・エル映画製作所(P.C.L.)で監督した、菊池寛の小説の映画化作品『日本女性読本』の共同脚本に小崎 政房名義で参加、同作は同年5月21日に公開された。P.C.L.は同年9月10日、合併して東宝映画となり、そこでも翌1938年(昭和13年)、岸松雄監督、岡田敬監督の作品計2本の現代劇の脚本に「小崎政房」名義で参加している。 同年、大都映画が製作した水島道太郎主演の現代劇『級長』で、オリジナル脚本を書き、吉村操監督のスーパーヴァイズのもと、「小崎政房」名義で映画監督としてデビュー、同作は同年11月24日に公開された。大都映画では、1940年(昭和15年)3月21日公開の『神竜長州義士 後篇』まで、合計100本の映画に「松山宗三郎」名義で出演し、1942年(昭和17年)1月7日公開の『疾風馬車』まで合計13本を「小崎政房」名義で監督した。大都映画は同年1月、戦時統制のため合併し、大日本映画製作(大映)となったが、小崎は監督として残留、巣鴨撮影所は閉鎖され、多摩川の大映第一撮影所に異動、戦時中に2本の映画を監督した。 1945年(昭和20年)8月15日、38歳で第二次世界大戦の終戦を迎えた。1946年(昭和21年)、田村泰次郎の小説『肉体の門』を舞台化、演出して大ヒットする。1948年(昭和23年)、太泉スタジオ(現在の東映東京撮影所)で、同社の第1作に大ヒットした舞台『肉体の門』の映画化を企画、ムーランルージュの同僚小沢不二夫に脚本を書かせ、自らが監督する予定だったが、主演の轟夕起子の夫でヴェテラン監督のマキノ正博に監督を任せ、同作は同年8月10日に公開された。その後の監督作品は2本に終わった。 1982年(昭和57年)6月22日、死去する。満75歳没。
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