法曹界時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 08:35 UTC 版)
1926年(大正15年)、司法官試補となる[要出典]。 1927年(昭和2年)12月に判事となり、東京地方裁判所、甲府地方裁判所に勤務した。1939年(昭和14年)5月に司法省から上海に派遣され、興亜院調査官、阿部信行特命全権大使随員、汪兆銘政権の日華基本条約締結の法律顧問を務めた。 この後は東京で裁判官生活を送り、1946年(昭和21年)7月から函館地方検察庁検事正を務める。その後、千葉地方検察庁検事正、最高検察庁検事、法務府刑政長官、最高検公安部長、札幌高等検察庁と福岡高等検察庁、大阪高等検察庁の各検事長を歴任した。大阪高検検事長時代には岸本義広の選挙違反事件を指揮した。 1962年(昭和37年)8月に最高裁判所裁判官に就任。1970年(昭和45年)7月31日に仁保事件の裁判長として死刑判決を破棄して広島高等裁判所にやり直しを命ずる破棄差戻し判決を言い渡した。この判決について草鹿は「別件逮捕等の法律問題に触れなかったのは、それよりもまず被告が犯人であるかどうかという最も重要な問題に取り組んだからだ。最高裁が証拠調べをするかどうかについて、16年前の事件であるため、当時以上の証拠を集めうることは難しいと判断してやらなかった。差し戻した広島高裁での証拠が十分でなかったら無罪にせざるをえないと思う」と話した。 最高裁判所裁判官時代の長官は石田和外であり、石田は長兄龍之介から山岡鉄舟を祖とする一刀正伝無刀流の免許皆伝を受けた間柄でもある[要出典]。 1970年(昭和45年)10月に定年退官。その後は弁護士登録し、三島事件の盾の会弁護人やロッキード事件の田中角栄被告弁護団の最高顧問を務めた。 墓所は東京上野の谷中霊園にあるが、これは元々、子供がなかったために丁卯次郎が家督を継いだ丁卯次郎の叔父にあたる草鹿瑍(彰、富山県判事)の墓所である[要出典]。
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