沖縄県について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 01:06 UTC 版)
「昭和天皇の戦後巡幸」の記事における「沖縄県について」の解説
戦後巡幸が行われた昭和20年代当時、同地はアメリカ合衆国による統治下にあったため、巡幸は不可能だった。 戦後は、沖縄県が沖縄戦による民間人被害が甚大であったことや、遡って琉球処分に対する県民感情から、1972年(昭和47年)の本土復帰後の記念植樹祭や翌1973年(昭和48年)の復帰記念沖縄特別国民体育大会(若夏国体)への行幸を行うことができなかった。 その後、皇太子明仁親王(当時)の尽力もあって、沖縄県民と皇室の関係が改善され、1987年(昭和62年)秋の第42回国民体育大会(海邦国体)では、ついに天皇自身の行幸が実現する予定だった。しかし、同年9月18日に発熱、翌19日には大量吐血となる等、天皇自身の不例が続き、同月28日には沖縄行幸が正式に中止された。同年10月24日、皇太子明仁親王が名代として国体開会式に出席した他、平和祈念堂で昭和天皇の「おことば」を代読した。天皇は、沖縄県民の労苦をねぎらい、行幸断念を「誠に残念でなりません」とした上で、回復次第「できるだけ早い時期に訪問したい」と表明した。 1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇は崩御し、沖縄行幸はついに叶わなかった。1921年(大正10年)の皇太子時代に欧州を歴訪した際、その往路、3月6日に沖縄本島に寄港し、約6時間余り滞在したのが、結果的に生涯唯一の訪問となった。
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