歴史との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 17:20 UTC 版)
「アダ・ツィガンリヤ」の記事における「歴史との関わり」の解説
アダ・ツィガンリヤは1821年にセルビア公・ミロシュ・オブレノヴィッチ(Miloš Obrenović)によって、公有財産としての保護が宣言された。1941年まで、この地には刑務所が置かれていた。この当時、アダ・ツィガンリヤは市民の憩いの場ではなく、砂利の浜は島の東端の辺りの対岸にある、セニャク地区(Senjak)のゴスポダルスカ・メハナ(Gospodarska Mehana)周辺にあるのみであった。しかし、この当時の著名なセルビアの作家・ブラニスラヴ・ヌシッチ(Branislav Nušić)はこの地をVodeni cvet(瑞々しい花)と呼び、その美しさを表現した。1946年7月17日の夜、共産主義体制となった新しいユーゴスラビア連邦の政権は、第二次世界大戦中の敵対勢力の政治家や軍事指導者らをナチズムの協力者として糾弾し、処刑した。処刑された中には、チェトニックの指導者・ドラジャ・ミハイロヴィッチやコスタ・ムシツキ(Kosta Mušicki)、セルビア救国政府の閣僚であったタナシイェ=タサ・ディニッチ(Tanasije-Tasa Dinić)、ジュラ・ドキッチ(Đura Dokić)、ヴェリボル・ヨニッチ(Velibor Jonić)などがいた。 長年にわたって、アダ・ツィガンリヤは釣り人に人気の場であり、俳優のパヴレ・ヴイシッチ(Pavle Vujisić)もこの場所を好んだ。1988年に彼が死去すると、島と本土をつなぐ堤防道路に彼の名をつける案が持ち上がったが実現せず、後にゼムン区の新しい区画アルティナ(Altina)の通りに彼の名がつけられた。1967年に堤防が築かれて島が本土と結ばれ、1971年にカヤックのチャンピオンシップが開催される等、各種のスポーツ大会が開かれるようになると、この地にはスポーツ施設などが整えられるようになり、市民のレクリエーションの場へと姿を変えていった。1980年代になると、音楽とエンターテイメントのショー「アダの夏(Leto na Adi)」が催されてセルビア国営放送によって生中継され、アダの人気は更に高まっていった。 現在のアダ・ツィガンリヤは、チュカリツァ区が運営する公営企業「JP Ada Ciganlija」によって管理されており、レクリエーション地区やサヴァ湖の浜が維持されている。この企業はアダ・ツィガンリヤの清掃や、湖底の藻の手入れをはじめとする管理業務、安全維持などの責任を負っている。島は公有となっているが、公共セクションのみが独占的に島を使用しているわけではなく、ゴルフ場などのレクリエーション施設やビジネス施設を運営する私企業も多数ある。
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