橋本派時代とは? わかりやすく解説

橋本派時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 19:38 UTC 版)

平成研究会」の記事における「橋本派時代」の解説

2000年小渕竹下相次いで死去7月綿貫衆議院議長就任し派閥を離脱したため橋本後任会長就任した。しかし、実質的に派閥実権握っていたのは、野中広務青木幹雄であった橋本は、2001年4月総裁後任を選ぶ総裁選出馬したが、小泉純一郎大敗した田中派以来、「一致結束箱弁当」と呼ばれる団結誇ったが、小泉政権成立以降総裁候補不在のままとなり求心力低下したまた、角福戦争以来怨念を抱く小泉首相からは、「抵抗勢力」と位置付けられ目の敵にされ、小泉政権では2003年9月まで橋本派党執行部から外された。橋本派党執行部ポスト就任できなかったことは過去遡る田中派時代三木政権1974年 - 1976年以来25年ぶりのことであり、橋本派影響力低下物語った2003年総裁選において、反小泉急先鋒であった野中が独自候補擁立主張したものの、青木幹雄村岡兼造小泉支持表明したために野中は完全に孤立総裁選のさなかに野中はこれを理由議員引退表明する事態となった。派内からは笹川尭熊代昭彦など複数会員公然と出馬意欲を示すなど大きく混乱したが、最終的に藤井孝男擁立。派内の支持まともに得られない中で藤井落選し小泉再選された。その後小泉政権下の党役員人事では2003年9月から2004年9月まで額賀福志郎政調会長に、2004年9月から2006年9月まで久間章生総務会長起用され久々に党三役ポスト得た2004年日歯連闇献金事件浮上し野中広務青木幹雄立ち会う形で橋本龍太郎1億円の小切手受け取り政治収支報告書に闇献金として処理していた疑惑浮上(この疑惑では村岡兼造官房長官在宅起訴され有罪)。2004年7月30日橋本責任をとる形で会長辞任。派からも離脱し2005年衆院解散政界引退した(その翌年死去)。その後綿貫民輔衆議院議長次いで保利耕輔自治大臣兼国公安委員会委員長会長就任声が上がるも、両者はともに固辞した。 さらに、郵政国会での郵政法案の対応を巡り2005年第44回衆議院議員総選挙綿貫保利法案反対組が非公認となり、党内第一派閥の座を森派(現・安倍派)に明け渡した

※この「橋本派時代」の解説は、「平成研究会」の解説の一部です。
「橋本派時代」を含む「平成研究会」の記事については、「平成研究会」の概要を参照ください。

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