桑実寺での政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:09 UTC 版)
一方、義晴の朽木滞在中、高国は各地の諸大名のもとを遊説し、かつて義晴の入京に協力した播磨の浦上村宗の協力を得て、享禄3年(1530年)8月に摂津に入っていた。義晴は六角定頼とともにこれに呼応し、上洛を試みた だが、享禄4年6月に高国・村宗方は摂津大物浦において、赤松晴政の裏切りにあって、義維・晴元方の三好元長に敗北した。これにより、村宗は討ち死にし、高国は自害を余儀なくされた(大物崩れ)。これにより、義晴は大きな後ろ盾であった高国を失った。 7月、義晴は高国の討ち死にを受けて、蒲生郡武佐の長光寺に移動し、享禄5年(天文元年、1532年)7月には六角定頼の居城・観音寺城山麓にある桑実寺に入った。義晴が桑実寺に移った理由としては、日本海側へのルートが危険となったため、京に近い六角氏の庇護下に入る必要性を迫られたためであった。 義晴は以後、桑実寺において約2年間を過ごし、幕府政治を行った。その間、義晴のもとには大徳寺など、京都の権門から訴訟が持ち込まれ、審議が行われた。大徳寺が持ち込んだ訴訟の場合、かつて義晴を庇護していた奉公衆の朽木植綱を通し、義晴のもとに訴訟が持ち込まれている。その採決もまた、六角定頼の意見が取り入れられるなど、庇護している定頼の意見が尊重された。 また、大永7年以降は若狭武田氏や越前の朝倉氏は出兵しなくなっており、高国という支柱を失った結果、義晴は近江六角氏を全面的に頼らざるを得なくなっていた。義晴が入京するためは、定頼の意見を重視せねばならず、義晴は高国に代わる存在として定頼の意見を求め、定頼も幕府政治に意見するという状態が続いた。 天文2年(1533年)9月12日、朝廷は義晴の父・足利義澄に太政大臣を追贈している。 10月以降、義晴は病気を理由として一切の面会を断ったため、義晴の決裁が必要な政務が滞り、翌年8月に政務が再開されるまでこの状態が続いた。義晴の病状は『兼右卿記』には「虫気」と記されており、腹痛を伴う病気をであったと考えられている。 天文3年(1534年)6月8日、義晴は前関白・近衛尚通の娘(慶寿院)を正室とした。この日の婚礼は雷のなる夕立の中で行われた、と記されている。足利義満以来、代々の将軍は日野家から正室を迎え入れていたが、 義晴はさらに上位の近衛家出身の正室を迎えることにより、朝廷との関係強化を図ったと考えられる。 また、義晴は桑実寺に滞在中、『桑実寺縁起絵巻』の作成を三条西実隆と土佐光茂に依頼しているが、京を離れていても京と強いつながりをもっていたのは、この頃の義晴の強みでもあった。
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