松本日仁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/02 02:58 UTC 版)
顕正寺「開基」とされる松本日仁(まつもとにちじん)は、日蓮正宗妙縁寺の住職として、また、権僧正(ごんそうじょう)の位にある高僧であったが、正本堂の定義をめぐる論争で国立戒壇論堅持を主張する浅井甚兵衛・浅井昭衛父子らに徹夜で軟禁されて、浅井親子の説得に応じる形となった。当時の様子について浅井昭衛は、総本山から戻った松本から電話があり、妙縁寺を訪ねたと主張しているが、その時刻を夕方と言ってみたり、深夜と言ってみたり、一貫性を見ないが、徹夜で松本住職を軟禁したことは事実のようである。その結果、1974年12月25日に擯斥(ひんせき。僧籍を剥奪した上で宗外へ追放すること)となった人物である。松本は、妙信講の後押しを受けて擯斥処分を不服とする訴訟を起こしたが、その訴訟の最中である1977年に至って、老衰で緊急入院し危篤状態となった(当時86歳)。妙信講顧問弁護士が委任権限を行使して「松本が妙縁寺に遺してきた銀行預金1億2500万円を、日蓮正宗側は、松本に引き渡すべく所定の口座に振り込む」との和解条件を受け入れ、この訴訟は取り下げられた。妙信講顧問弁護士が指定してきた口座は「顕正寺建立準備資金」名義の銀行口座であり、松本の死後、この1億2500万円が、顕正寺建設の資金等として使用された。松本の遺族らは抗議したが、すでに後の祭りであった(元創価学会顧問弁護士・山崎正友が『慧妙』紙に連載した手記による)。 なお、浅井昭衛は後年、「松本が臨終間際に新聞紙に包んで金子を自分に手渡した」と発言している(顕正新聞 平成十一年四月二十五日号)が、これは、銀行振込によって宗門から妙信講の手に渡ったという1億2500万円とは別の話で、数百万円だといい、当時赤字であった顕正新聞社の赤字補填に使用されたとのことである(下山正行こと下山正恕こと藤田実=本名・上原成宏、故人であるが顕正会壮年部員であるにもかかわらず日蓮正宗信徒と詐称して『冨士大石寺顕正会』なる礼賛本を執筆するなど、顕正会を擁護した人物の証言)。 顕正新聞平成十一年四月二十五日号における浅井の発言
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