松原時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 03:49 UTC 版)
「日本女子体育専門学校 (旧制)」の記事における「松原時代」の解説
松原に移転したばかりの頃は、10教室と1,000坪(≒3,305.8 m2)の運動場を有していた。人見絹枝が入塾した時の体操塾がこれで、京王線松原駅(現・明大前駅)から畑地の中を抜け、竹やぶに囲まれた地にあった。校舎はバラックで、想像とのあまりの違いに人見は落胆したという。1924年(大正13年)に雨覆い体操場兼講堂を建設し、人見絹枝のために急きょ運動場を2倍に拡張した。1925年(大正14年)には運動場を5,000坪(≒16,529 m2)まで拡張、生理解剖室・研究室を建設した。それでも設備が不足したので、東京帝国大学(東大、現・東京大学)に生徒を連れて解剖の見学に出かけたり、慶応義塾大学(慶大)や東京女子音楽体操学校から備品を借用して文部省の審査をやり過ごしたりしていた。 1933年(昭和8年)に体専を訪問した記者によると、玄関を入ってすぐのところに「去華就実」と書かれた額が飾られ、その横には「面会時間30分」、「商品紹介御断り」と書かれた紙が貼ってあったという。3坪(≒9.9 m2)ほどの部屋を書斎兼校長室としており、洋風の室内には「正義無敵」の額を掲げていた。校長室の入り口にはカーテンがかけられ、中の様子が窺えないようになっており、生徒が入室する際は一声かけて入室許可を得た。 冬季には運動場が霜柱でぬかるみ、満足な練習ができないため、今村嘉雄の紹介で東京高等師範学校(東京高師)バスケットボール部(現・筑波大学男子バスケットボール部)の指導の下、バスケットボールを習うグループが生まれた。このグループには陸上競技の石津光恵や水泳の松澤初穂が参加しており、大塚の東京高師体育館へ通ってバスケットボールをプレーした。金欠ゆえに校舎は雨漏りしても修繕することができず、空襲は受けなかったものの、日女体短に移行してすぐに新築・改築に取り掛かった。 校舎はトクヨの個人資産扱いになっていたが、財団を学校法人二階堂学園に改組する手続きを行うまで誰も知らず、継承者の直富と経営者の清寿が対立することとなった。
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