東西貿易の拠点マハーバリプラム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 08:01 UTC 版)
「マハーバリプラム」の記事における「東西貿易の拠点マハーバリプラム」の解説
4世紀から9世紀にかけて、内陸のカーンチプラムにはパッラヴァ朝の首都がおかれていた。パッラヴァ朝の4世紀から5世紀にかけてはマイスール方面に興ったカラブラ朝(英語版)の勢力下にあったものと考えられ、詳細の不明な点も多いが、6世紀後半に現れたシンハヴィシュヌ(英語版)王(在位:560年 - 580年)はヒンドゥー教信仰を持ち、カラブラ勢力を打ち破って領土をカーヴェーリ川流域に広げた。シンハヴィシュヌはさらに、パーンディヤ朝やスリランカ(セイロン島)の統治者とも争い、その後継者のマヘーンドラヴァルマン1世(英語版)(在位:580年 - 630年)の時代にはバーダーミ(英語版)のチャールキヤ朝との抗争が始まった。 カーンチプラムの東65キロメートルに位置し、ベンガル湾に臨むマハーバリプラム(マーマッラプラム)は、6世紀以降、パッラヴァ朝における東西貿易(「海のシルクロード」)の一大拠点として栄え、町には数多くのヒンドゥー教寺院が建立された。みずから文人と称したマヘーンドラヴァルマン1世の時代には岩窟寺院に新しい建築様式が生み出されるなど、文化の面で顕著な発展がみられると評される。その子ナラシンハヴァルマン1世(英語版)(在位:630年 - 668年)の治世にはバーダーミのチャールキヤ朝より首都カーンチプラムが攻撃を受けるが、これを撃退して逆にバーダーミを占領した。唐僧玄奘が南インドを旅行したのは、ちょうどこの時期にあたる。パッラヴァ朝は7世紀末にチャールキヤ朝とパーンディヤ朝の挟撃を受けたが、ナラシンハヴァルマン2世(英語版)(在位:700年 - 728年)の代には平和と繁栄を取り戻し、マハーバリプラムの海岸寺院やカーンチプラムのカイラーサナータ寺院(英語版)などのヒンドゥー建築、また文学においても水準が高いものが生まれたとされる。 パッラヴァ朝におけるすぐれた建築様式はタミル商人たちによって、スリランカ(セイロン島)や東南アジア各地にまで伝えられた一方、軍事的にはパッラヴァ朝と対立したデカン高原の前期チャールキヤ朝(バーダーミのチャールキヤ朝)の建築、とくにパッタダガルのヒンドゥー建築にも大きな影響をあたえた。
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