東北帝国大学医学部と先史考古学会とは? わかりやすく解説

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東北帝国大学医学部と先史考古学会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 01:24 UTC 版)

山内清男」の記事における「東北帝国大学医学部と先史考古学会」の解説

1924年8月、清男は父素行友人からの斡旋東北帝国大学医学部解剖学教室副手になったが、教室主宰する教授長谷部言人対立し1925年頃には、職を辞するつもりで上京するが、尊敬する小金井良精らの取りなしによって仙台に戻る。この出来事は、山内当初行ないたかった形質学的研究に関して長谷部がそれを山内業務として認めず山内考古学的な研究を行なわせようとしたためだという。そのこと官憲による権威主義反発する山内心情害した考えられている。1924年山内八幡一郎松村瞭などと共に小川貝塚・三貫地貝塚(福島県新地町)を調査したが、同じ頃、仙台モンテリウス著『考古学研究法』を原著読み地層累重の法則知ったほか、東北帝国大学教授松本彦七郎層位学的研究法興味持ち小川貝塚調査終えた後、八幡とともに仙台松本彦七郎訪れている。山内は、この時の小川貝塚実地調査層位研究による編年自信持ったとされている。 その後毎年のように東北地方各地貝塚発掘調査し、縄文土器資料操作層位的な所見基づいた研究成果蓄積していった。山内1932年から1933年に、その成果を「日本遠古文化」として雑誌ドルメン誌上発表した一方1933年東北帝国大学医学部依願解職し、仙台東京行き来する生活となる。一時期、「パピルス書院」という文具店を経営し日本最初横書き原稿用紙製造・販売していたが、これもすぐに閉鎖して以降どの研究機関にも属さない研究生活を送ることになる。1924年11月には、原始文化研究会創立して月例会を主催するうになるこの頃になると、山内八幡一郎、そして甲野勇鳥居龍蔵弟子達(いわゆる編年学派」、「三羽烏」)による土器編年基づいた相対年代決定は、特に大山柏主催する大山史前学研究所や、山内らよりも下の世代考古学徒のなかで支持を得始めていたが、これより上の世代には不審の目を持って受け取られていた。そうしたなか記紀の記述に基づき常識による「常識考古学」を主張する喜田貞吉との間に意見の相違生じ、その衝突1936年ミネルヴァ論争最高潮迎えることになる。

※この「東北帝国大学医学部と先史考古学会」の解説は、「山内清男」の解説の一部です。
「東北帝国大学医学部と先史考古学会」を含む「山内清男」の記事については、「山内清男」の概要を参照ください。

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