東北帝国大学医学部と先史考古学会
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「山内清男」の記事における「東北帝国大学医学部と先史考古学会」の解説
1924年8月、清男は父素行の友人からの斡旋で東北帝国大学医学部解剖学教室の副手になったが、教室を主宰する教授の長谷部言人と対立し、1925年頃には、職を辞するつもりで上京するが、尊敬する小金井良精らの取りなしによって仙台に戻る。この出来事は、山内が当初行ないたかった形質学的研究に関して、長谷部がそれを山内の業務として認めず、山内に考古学的な研究を行なわせようとしたためだという。そのことが官憲による権威主義に反発する山内の心情を害したと考えられている。1924年、山内は八幡一郎、松村瞭などと共に小川貝塚・三貫地貝塚(福島県新地町)を調査したが、同じ頃、仙台でモンテリウス著『考古学研究法』を原著で読み地層累重の法則を知ったほか、東北帝国大学教授松本彦七郎の層位学的研究法に興味を持ち、小川貝塚の調査を終えた後、八幡とともに仙台の松本彦七郎を訪れている。山内は、この時の小川貝塚の実地調査で層位研究による編年に自信を持ったとされている。 その後、毎年のように東北地方各地の貝塚を発掘調査し、縄文土器の資料操作や層位的な所見に基づいた研究成果を蓄積していった。山内は1932年から1933年に、その成果を「日本遠古之文化」として雑誌『ドルメン』誌上に発表した。一方、1933年に東北帝国大学医学部を依願解職し、仙台と東京を行き来する生活となる。一時期、「パピルス書院」という文具店を経営し、日本で最初の横書き原稿用紙を製造・販売していたが、これもすぐに閉鎖して、以降どの研究機関にも属さない研究生活を送ることになる。1924年11月には、原始文化研究会を創立して、月例会を主催するようになる。この頃になると、山内や八幡一郎、そして甲野勇ら鳥居龍蔵の弟子達(いわゆる「編年学派」、「三羽烏」)による土器の編年に基づいた相対年代の決定は、特に大山柏が主催する大山史前学研究所や、山内らよりも下の世代の考古学徒のなかで支持を得始めていたが、これより上の世代には不審の目を持って受け取られていた。そうしたなか記紀の記述に基づき常識による「常識考古学」を主張する喜田貞吉との間に意見の相違が生じ、その衝突は1936年のミネルヴァ論争で最高潮を迎えることになる。
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