杉山茂 (陸軍軍人)
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杉山 茂 | |
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生誕 | 1902年4月28日 日本 岡山県 |
死没 | 1982年1月29日(79歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 警察予備隊 保安隊 陸上自衛隊 |
軍歴 | 1924年 - 1945年(日本陸軍) 1952年 - 1952年(予備隊) 1952年 - 1954年(保安隊) 1954年 - 1960年(陸自) |
最終階級 | 陸軍大佐(日本陸軍) 陸上幕僚長たる陸将(陸自) |
除隊後 | 財団法人偕行社会長 |
杉山 茂(すぎやま しげる、1902年〈明治35年〉4月28日 - 1982年〈昭和57年〉1月29日)は、日本の陸軍軍人及び陸上自衛官。陸士36期、陸大45期。第3代陸上幕僚長。
経歴
岡山県出身。広島陸軍幼年学校から陸軍士官学校第36期卒業。陸士の同期には辻政信がいた。終戦時はニューギニアの第18軍司令部高級参謀[1]。1952年(昭和27年)7月、警察予備隊に入隊。第一幕僚監部第三部長、陸上幕僚副長を経て、1957年(昭和32年)8月に第3代陸上幕僚長に就任した。温厚篤実なタイプで3年間、陸幕長を務めたが[2]、この間に防衛庁長官は5人も代わった[2]。
第18軍高級参謀で苦戦中に妻を亡くし、戦後、服部卓四郎他からの勧めで東條英機の娘、東條光枝と再婚したが、癌で早世した[2]。
年譜
- 1924年(大正13年)
- 1927年(昭和2年)10月25日:陸軍中尉
- 1928年(昭和3年)8月10日:台湾歩兵第2連隊附[3]
- 1930年(昭和5年)12月:陸軍大学校入校
- 1933年(昭和8年)
- 1934年(昭和9年)12月10日:歩兵第1連隊附・参謀本部附[4]
- 1936年(昭和11年)12月:第10師団参謀
- 1940年(昭和15年)8月:参謀本部編制動員課動員班長
- 1941年(昭和16年)3月:参謀本部庶務課高級課員
- 1942年(昭和17年)11月:第18軍作戦主任参謀
- 1943年(昭和18年)7月:第18軍高級参謀
- 1946年(昭和21年)2月:予備役となる。
- 1948年(昭和23年)2月:戦争裁判の判決が確定、禁錮5年となる。
- ※占領からの講和発効に伴い、公職追放解除となる
- 1952年(昭和27年)
- 1953年(昭和28年)2月1日:保安監補に任命
- 1954年(昭和29年)7月1日:陸将に任命、陸上幕僚副長に就任
- 1957年(昭和32年)8月2日:第3代 陸上幕僚長に就任
- 1960年(昭和35年)3月11日:退官。
- 1972年(昭和47年)11月3日:勲二等瑞宝章受章[6]
- 1982年(昭和57年)1月29日:死去、叙・正四位[7]
栄典
脚注
- ^ 終戦時帝国陸軍全現役将校職務名鑑 戦誌刊行会, 1985年8月573コマ
- ^ a b c 歴代陸幕長を総括する / 小名孝雄「軍事研究」 1985年5月 P54~68 ジャパンミリタリー・レビュー
- ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(昭和7年9月1日調)269コマ
- ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(昭和10年9月1日調)226コマ
- ^ 『官報』本紙第7717号(昭和27年9月26日)
- ^ 『官報』本紙第13764号(昭和47年11月9日)
- ^ 『官報』本紙第16512号(昭和57年2月15日)
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