末次平蔵の台湾領有計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:41 UTC 版)
「村山等安の台湾出兵」の記事における「末次平蔵の台湾領有計画」の解説
日本側による台湾領有の試みは、村山等安の後に長崎代官となった末次平蔵にも引き継がれる。1620年代になると台湾に勢力範囲を広げつつあったオランダと日本側の間にトラブルが起きるようになった。 1625年、末次平蔵が派遣した朱印船2隻がオランダ側より10パーセントの関税の支払いを命じられた。しかし日本側は将軍の朱印状を得ている商人であり、そもそも台湾を領有していると主張して支払いを拒んだ。オランダ側は貨物の生糸を没収し、平蔵はこの事件を幕府に訴え出た。末次平蔵は台湾に対する権益を主張し、1627年(寛永4年)に台湾の新港の住民数名を日本に連行し、11月には徳川家光に謁見を求めた上で台湾全土を将軍に献上しようと試みた。しかし幕府側は平蔵の台湾献上要請に応じなかった。 1628年(寛永5年)末次平蔵は台湾に2隻の船を派遣し、前年、家光に謁見させようと試みた台湾住民を送還したが、2隻の船には武器や火薬が積載されていた。オランダ側は態度を硬化させ、台湾に帰還した住民たちを逮捕して将軍からの下賜品を没収し、積荷の武器や火薬を押収して船長を抑留した。交渉の結果、妥協が成立するものの今度は日本に来航したオランダ船やオランダ商館を舞台にトラブルが続いた。これらのトラブルをタイオワン事件と呼ぶ。そしてこの間、平蔵は幕閣に対して台湾は自らが支配すべき土地であるとの主張を繰り返していた。 1629年(寛永6年)、末次平蔵はオランダ東インド総督に、将軍からの手紙であると称した偽の書状を送った。この書状では1628年(寛永5年)に台湾へ派遣された船で送還された台湾住民を逮捕して将軍の下賜品を没収し、積荷の武器を没収したのは不届き千万である。その償いとしてゼーランディア城を破却してその地を将軍に割譲するよう要求していた。オランダ側はその書状が偽物であることを見抜き、要求を拒否した。 幕府としては対外的なトラブルを引き起こし、台湾領有という統治に関わる分野まで口を出す形となった末次平蔵のことを忌避するようになった。1630年(寛永7年)6月、平蔵は江戸で不審死し、後継者となった平蔵の子、末次茂貞は幕府の政策に従順であった。茂貞はオランダ側との紛争は父の問題であり自分は特に事を構えるつもりは無いとのスタンスを取り、タイオワン事件は解決に向かうことになる。いずれにしても台湾領有計画は末次平蔵の独断によるもので、幕府側にはその意図は無かった。1630年代、幕府は相次いで日本人の対外渡航禁止に関する法令を出し、台湾への渡航も不可能になっていく。このような中で江戸時代の日本による台湾領有計画は立ち消えとなっていく。
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