木曽も含んでいた古代から近世とは? わかりやすく解説

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木曽も含んでいた古代から近世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:09 UTC 版)

恵那郡」の記事における「木曽も含んでいた古代から近世」の解説

702年大宝2年)に「始めて美濃国の岐山道を開く」と続日本紀記されているのが岐木曽)の史料上の初見であるが、このとき木曽路開通させたのは美濃国役人たちであったため、木曾谷美濃国含まれた。はじめ美濃国恵奈郡上郷属していたが、信濃国所属がしばしば争われた。9世紀後半の、貞観年中859年876年天皇勅命により、朝廷より藤原正範と靭負直継雄が派遣され両国国司現地臨んだ。この時の正範らの報告によると、「もともと吉小吉の両木曾谷村落)は美濃国恵奈郡上郷地域にあり、和銅6年713年)に美濃守笠麻呂らが、ここに吉路を開通させた(三代実録)。ここは美濃の国府(不破郡垂井町府中)から10日余りもかかる距離にあり、信濃国府(松本市)のすぐ近くではあるが、もし信濃国ならば、美濃国司がこのような遠いところで工事をする理由がない。その理由美濃信濃両国国司立ち会いの上国境を「懸坂上岑」(木祖村と旧奈川村との境界木曽川水源から北にある境峠)と定め、吉小吉恵奈郡上郷の地と裁断。それでこの報告にしたがって木曾谷美濃国決めた。」という。当時は、境峠越えて飛騨から来た道と合流し信濃国府へ向かったのである。しかし平安時代末期になると、源義仲信濃国木曾住人とされたように木曾谷信濃」という認識生まれた平安時代中期拾遺和歌集には、源頼光の『なかなかに いいもはなたで信濃なる木曽路のかけたるやなぞ』という和歌がある。 信濃地名考という文献には、木曾信濃国移管されたのは、平安時代延喜年間901年 - 923年)と記されている。 美濃国恵奈郡であった木曾全域信濃国移った時期について、信州大学人文学部山本英二教授長野県木曽郡大桑村定勝寺古文書回向文の中から年代分かる5点で、延徳3年(1491年)には、美濃恵奈郡木曽庄とあるが、永正12年(1515年)には、信濃木曽と書かれているので木曾美濃国恵奈郡から信濃国移ったのは1491年から1515年の間と結論付けた木曾古道記には木曽川より東側にある定勝寺天文18年(1549年)作の鐘銘には信州木曾と書かれてあるのに対し木曽川より西側にある興禅寺にある承応2年(1653年)作の鐘銘には美濃国恵那郡木曾となっていることを述べた上で天正以来記録木曽川より東を信濃国筑摩郡木曽川より西を美濃国恵那郡分けていたが、享保9年(1724年)に木曽川の東も西も信濃国筑摩郡木曾定められたと記されている。

※この「木曽も含んでいた古代から近世」の解説は、「恵那郡」の解説の一部です。
「木曽も含んでいた古代から近世」を含む「恵那郡」の記事については、「恵那郡」の概要を参照ください。

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