朝鮮と後金・清への服属
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「文禄・慶長の役」の記事における「朝鮮と後金・清への服属」の解説
朝鮮と明が文禄・慶長の役によって国力を疲弊させると、女真族のヌルハチが台頭し、1616年までに明からの独立し、アイシン国(aisin gurun, 金国。後金)を建国した。1619年の明とアイシン国の戦争であるサルフの戦いで、金は明に勝利する。朝鮮は援軍を明に送っていたが、金に降伏し「朝鮮は戦う意志は無く、明の強制的な要請によって援軍を送った」と弁明した。ヌルハチはこれを許し、後金は朝鮮侵攻を行わなかった。しかしその後、朝鮮でクーデターが起き、反金・親明政策をとるようになる。1624年の仁祖に対する李适の反乱が起き、すぐ鎮圧されたが、後金に逃げ込んだ反逆者が朝鮮侵攻を進言、ホンタイジが1627年に朝鮮に侵攻する(丁卯胡乱)。後金軍が漢城に到達すると、仁祖は降伏し、後金を兄、朝鮮を弟とする兄弟国としての盟約、朝鮮は王族を人質として差し出すことなどが合意された。しかし、朝鮮には反後金感情が強く残った。 1636年に後金が清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた際に朝鮮はこれを断り、清は12万の軍で朝鮮に侵入した(丙子の乱)。朝鮮側は45日で降伏し、朝鮮は以後、清の属国となった。仁祖はホンタイジに対し三跪九叩頭の礼をし、清皇帝を公認する誓いをした(大清皇帝功徳碑)。清への服属は日本が日清戦争で清に勝利し、朝鮮が清の冊封体制から離脱する1895年まで続いた。
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