朝焼の雲海尾根を溢れ落つ
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評 言 |
山岳俳句に独自の新境地を拓いたとされる石橋辰之助の二十二歳の時の作品である。「馬酔木」昭和七年三月号に掲載され、第一句集『山行』(昭和十年刊)、『定本石橋辰之助句集』(昭和四十四年刊)に収録されている。 『山行』は序も跋も後記もない、純朴な辰之助らしい実にサッパリとした句集であるが、「『山行』余録」(「馬酔木」昭和十年七月号)によると、彼が山登りの魅力に取りつかれたのは十三歳の時、八ヶ岳へ学友のお父さんに連れて行って貰ったのが最初である。 その後、東京付近の甲州や秩父の山々を片っ端から登り、十八歳の夏、家人に嘘をついて一人で「燕岳大天井岳東鎌尾根槍ヶ岳梓川下り上高地」というコースを踏破して、すっかり山に自信を持ったという。 しかし、『山行』を出した時、辰之助は二十六歳、この年に結婚し、翌年に長男、翌々年には次男が生まれ、新宿帝都座で照明係・映写技師の勤めがあり、もう自由に好きな山へ行くことは出来なくなっていた。 その後、辰之助は「馬酔木」を離脱、新興俳句弾圧事件、戦後の「俳句人」時代などを経て、昭和二十三年、無理がたたり、粟粒結核のため三十九歳の若さで急逝する。彼の句集は『山行』以後、『山岳画』、『家』、『妻子』と続き、句集名が彼の句業の変遷を如実に物語っている。 私が辰之助を知ったのは、滋賀県の湖西を走る電車の駅で比良山へ向かうバスを待っている間に読んだ、志摩芳次郎の本によってである。 当時、私は四十代半ば、滝を攀じ、イワナやアマゴを釣り、山菜を採り、写真を撮っての渓歩きに、宮仕えで鬱積したエネルギーの全てをぶつけていた。辰之助は、その日分け入った安曇川源流の雪深い渓と共に、生涯忘れることの出来ない人となったのである。 |
評 者 |
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備 考 |
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