服飾史教育者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:05 UTC 版)
路可はフランス遊学時代、エコール・デュ・ルーヴルの西洋服装史専科でも研修している。アールデコ博で建築や装飾、家具や服飾といったものまでもアートの領域になるという新しいアートの潮流を間近に感じたことからきたことだったのだろう。ファッションの中心地、パリで本格的な西洋服装史を学んだ日本人は当時希有な存在だった。鵠沼から目白に居を移すのと相前後して財団法人並木学園が開設した文化服装学院から招聘を受けた。これには壁画模写を依頼した松本亦太郎教授の口利きがあったともいわれている。以後、文化服装学院とは終生関係の深い存在だった。1950年、財団法人並木学園が文化女子短期大学を開設した際、初代学長に徳川義親候が就任したことも、路可の存在なしには考えられない。チヴィタヴェッキアでの制作期間、当然、休職にはなったが、路可の勤務先、文化服装学院の対応は寛大だった。イタリアはファッションの先進国である。想定を超える長期欠勤となった路可を学院の発行する『装苑』、『すみれ』の特派記者という扱いで、定期的に記事を送稿することを条件に、留守宅に給料を届けたのである。1971年、フランスから当時のファッションの中心人物だったピエール・カルダンが来日したときには、文化学園で通訳も含めて同行した。 長谷川路可の教職歴 1929年 - 1936年? 大和学園高等女学校講師、図画を担当 1937年 - 1967年 - 文化服装学院講師、服装美学・服装史を担当。 1939年 - 1941年 - 共立女子専門学校講師、服装史を担当 1939年 - 1944年 - 日本大学専門部芸術科(現・芸術学部)講師、日本画・フレスコを担当 1940年 - 1948年 - 東京家政専門学校講師、服装史を担当 1946年 - 1949年 - 恵泉女学園高等部講師、服飾史を担当 1950年 - 1964年 - 文化女子短期大学教授、服飾史を担当 1958年 - 1967年 - 日本女子大学講師、服装史を担当 1958年 - 1961年 - 武蔵野美術学校本科芸能デザイン科講師、服装史を担当 1959年 - 1966年 - 昭和女子大学短期大学部講師、服装史を担当 1962年 - 1967年 - 武蔵野美術大学特任教授待遇となる 1964年 - 1967年 - 文化女子大学教授に就任
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