時間的な問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 19:19 UTC 版)
850年代の教皇位の記録は不完全だが、それでもレオ4世とベネディクトゥス3世の間に、「ヨハン・アングリクス」なる人物がいたという説には説得力がない。 レオ4世が855年7月17日に死去し、アナスタシウス・ビブリオテカリウスが教皇就任を宣言したが僅か2週間で支持を失い、855年9月29日にベネディクトゥス3世が教皇となった、ということは複数の歴史書で一致している。つまりトロッパウのマルティンのいう「ヨハン・アングリクス」が教皇となりうる期間は存在せず、まして2年間も教皇位につくことはありえないのである。 ベネディクトゥス3世が855年の末に教皇になったことは歴史書以外の証拠でも確かである。例えば、855年に鋳造された硬貨に、ベネディクトゥスが教皇として、ロタール1世が皇帝として表裏に描かれている。ロタールはベネディクトゥスが教皇に就任する前である855年9月29日に死んだが、ロタールがローマに居なかったため数か月間そのことはローマに伝わらず、このような貨幣が鋳造された。このことから、ベネディクトゥス3世の即位は855年9月近辺であると推定できる。また、ランスのヒンクマルによる手紙には、ベネディクトゥス3世がレオ4世の死後すぐに教皇となったとある。ベネディクトゥス3世の次に教皇となったニコラウス1世の手紙でも確認できる。 867年から872年の間にウィーン司教のアド (Ado) によって書かれた年代記には、継承についてこのように簡単に記している: ローマ教皇グレゴリウスが死ぬと、セルギウスが教皇に任じられた。そしてその死後はレオが継承した。さらに彼が死ぬとベネディクトゥスが使徒座についた。 9世紀において教皇制と敵対した者達が女教皇について何も語っていないことも注記に値する。例えばコンスタンティノポリスのフォティオスは、858年に世俗の官僚からコンスタンティノポリス総主教となり、863年にローマ教皇ニコラウス1世によって廃位を宣言された人物であり、当然のことながら教皇とは敵対した。フォティオスはローマ教皇に対する自身の総主教としての権威を激しく主張しており、その時代の教皇制にどんなスキャンダルがあったとしても糾弾したはずである。しかし、彼の遺した多量の文書に女教皇の話はない。それどころか、彼は「レオとベネディクトゥス、ローマの教会で連続した偉大な司祭たち」と述べている。 17世紀にクレメンス8世が女教皇ヨハンナの不在を宣言した時に資料が改竄されたのだ、という主張もあったが、ヨーロッパの全ての修道院と図書館の文書から彼女の名前を取り除くのはほぼ不可能である。また、文書から文章を消したり偽造文書にすりかえたとしても、現代では文章の書かれた年代を文書の素材や書式などによってきわめて正確に判定できるから、改竄は容易に検出される。そして、13世紀以前の本から女教皇ヨハンナの記録が取り除かれたという証拠はない。逆に女教皇ヨハンナの記録が挿入されたことが示されている。
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