映画評論 (雑誌)とは? わかりやすく解説

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映画評論 (雑誌)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 04:43 UTC 版)

映画評論
1967年1月号
ジャンル 映画評論
刊行頻度 月刊誌
発売国 日本
言語 日本語
刊行期間 1925年
1926年 - 1946年1月(1946年1・2月合併号)
1947年1月(1947年2月号) - 1949年
1950年 - 1974年12月(1975年1月号)
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映画評論』(えいがひょうろん)は、かつて存在した日本の雑誌である。1925年大正14年)から1975年昭和50年)まで、50年間刊行された映画評論雑誌である。

略歴

同人誌時代

1925年

『映画評論』は、1925年(大正14年)、宮城県仙台市旧制第二高等学校(現在の東北大学の前身校の1つ)出身の映画ファンの青年たち、佐々木能理や太田国夫らが、映画評論を行う同人誌として刊行され、4冊発行された。

第1期

1926年 - 1946年

翌1926年(大正15年)4月に、画家の寺崎廣業の息子である寺崎廣載をスポンサーとして、東京府(現在の東京都)に編集部を移し、商業雑誌として復刊した。創刊当時から、映画監督を映画作品の作者とみなし、作家としての研究を特集したことを特色とした[1]1927年(昭和2年)12月27日、編集部員が会議を行い、同年の外国映画ベストテン、日本映画ベストファイブを決定、翌1928年(昭和3年)2月号誌上で下記の通り発表した[1]

1927年外国映画ベストテン

『チャング』(Chang, メリアン・C・クーパー)、『第七天国』(フランク・ボーゼイジ)、『面影』(Das Bildnis, ジャック・フェデー)、『ビッグパレード』(The Big Parade, キング・ヴィダー)、『蹴球王』(The Quarterback, フレッド・ニューメイヤー)、『真紅の文字』(The Scarlet Letter, ヴィクトル・シェストレム)、『女心を誰か知る』(You Never Know Women, ウィリアム・A・ウェルマン)、『帝国ホテル』(Hotel Imperial, マウリッツ・スティルレル)、『ヴァリエテ』(Varieté, E・A・デュポン)、『椿姫』(Camille, フレッド・ニブロ

1927年日本映画ベストファイブ

忠次旅日記 信州血笑篇』(伊藤大輔)、『恥かしい夢』(五所平之助)、『忠次旅日記 甲州殺陣篇』(伊藤大輔)、『淋しい乱暴者』(五所平之助)、『からくり娘』(五所平之助)

1941年(昭和16年)1月に、国策による映画雑誌の統廃合が行われたが、『映画評論』は刊行を続けた。1943年(昭和18年)、前年に大陸に渡り上海中華電影公司にいた清水晶が帰国、編集長に就任する[2]

1944年(昭和19年)に、映画ファン雑誌を経営していた高田俊郎(高田文夫の親戚)の経営するところとなる。この頃の執筆者・編集同人は、南部圭之助大黒東洋士森岩雄津村秀夫らであった。同年、清水晶は松竹大船撮影所に入社している[2]

戦後になると、アメリカ映画の評論家として、筈見恒夫双葉十三郎飯島正岩崎昶らが執筆人に加わったが、1946年(昭和21年)1・2月合併号で発行が一時停止された。

おもな特集

1926年の本格創刊以来、作家としての映画監督の特集を組んだ[1]

第2期

1947年 - 1949年

1947年(昭和22年)2月号から『映画評論』はリニューアルして復刊した。編集同人は飯島正、大塚恭一、沢村勉、清水晶らとなったが、戦前・戦中からの評論家が主に執筆を行っていた。1949年(昭和24年)、清水晶が再度編集長に就任する[2]

第3期

品田雄吉が編集長を務めていた時代の1962年8月号の表紙。
佐藤重臣が編集長を務めていた時代の1967年4月号の表紙。
1950年 - 1975年

1950年(昭和25年)からリニューアルした「第3期」は、『映画評論』誌の黄金時代であった。広く新人評論家をつのり、また編集長は佐藤忠男品田雄吉佐藤重臣、編集者には虫明亜呂無長部日出雄等と、それぞれ評論家としても一家言ある個性的な人物たちがつとめた。

投稿欄からは、佐藤忠男、佐藤重臣のほかに、森卓也田山力哉山際永三(のち映画監督)、石上三登志らが育った。また、小林信彦、虫明亜呂無、長部日出雄、大島渚らは佐藤忠男編集長時代に編集部に出入りしているうちに、執筆者となった。

文藝評論家の花田清輝もしばしば寄稿し、1959年(昭和34年)には花田と吉本隆明との論争の舞台となった。

他の映画雑誌がとりあげないB級映画についても、水野晴夫加藤泰を、田山力哉が鈴木清順を、佐藤重臣が新東宝映画を評価するなどした。

また、増村保造や大島渚など、当時気鋭の若手監督たちの、自身の映画論も掲載した。大島らが、松竹ヌーヴェルヴァーグ運動を起こすと、その機関紙的存在となって、彼らの映画を擁護した。

佐藤重臣編集長時代の1960年代後半以降は、社会全体の反体制的な雰囲気を雑誌も取り込み、若松プロを支持するなどアングラ路線を展開。当時もっとも先鋭的な雑誌のひとつとなった。

1974年(昭和49年)3月にオーナーの高田俊郎が雑誌の権利を室井忠道に売り渡し、新オーナーの指示により1975年(昭和50年)1月号で休刊となった。

脚注

  1. ^ a b c 小松弘「モダニズムの成立-一九二七年における日本映画の状況-」『早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第3分冊日本文学演劇映像美術史日本語日本文化』第50巻、早稲田大学大学院文学研究科、2004年、25-42頁、CRID 1050282677496040448hdl:2065/8549ISSN 1341-7533 
  2. ^ a b c 『銀幕の顔』、清水晶、社会保険研究所、1991年9月 ISBN 4882492113, p.230(奥付)。

参考文献

外部リンク




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