星室庁裁判から幽閉へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 18:24 UTC 版)
「ウィリアム・プリン」の記事における「星室庁裁判から幽閉へ」の解説
多くのピューリタンのように儀式を退廃的として嫌い、プリンはクリスマスなどの宗教的祝祭や、宴会や演劇に強く反対した。著書Histriomastix(1632年)では、演劇は聖書や教父によって禁止されており、不法で、不道徳心を刺激するとしてヘンリエッタ・マリア王妃を含めて女優を告発した。1634年に演劇の観客は「悪魔、不敬の怪物、無神論的ユダの化身である。彼らはみずからの宗教に対しては喉を掻き切る殺人鬼」と述べた。1633年1月に王妃と貴婦人たちがウォルター・モンタグ廷臣作の仮面劇『羊飼いの楽園』に参加したところ、そのうちの女優の演じる役を示す一節が王妃への中傷、観客と司法長官への攻撃と解釈され、皇帝ネロのような圧制者について述べる部分はチャールズ1世への攻撃として受け止められたため、法律家ウィリアム・ノイによってプリンは星室庁に告訴された。ロンドン塔に幽閉後、プリンへの判決は罰金5000ポンド、リンカーン法曹院から追放され、学位も剥奪、さらし台の刑によって片耳を失った。 プリンが迫害者とみなしたウィリアム・ロード宛に判決が不当であると手紙を送ったが、ロードはこの手紙を新しい告発の材料として代理人に渡した。しかし、プリンは手書きの手紙の所有権を主張して返還させたあと、裂いて断片にした。ロンドン塔でプリンは匿名で監督制や王によるスポーツ法令(Declaration of Sports)を批判する論文を執筆し、出版した。ノイが死亡すると、これは警告であると述べた。ジョン・バストウィック(John Bastwick)のFlagellum Pontificisの附録や、A Breviate of the Bishops' intolerable Usurpationsでは高位聖職者を批判した。News from Ipswich(1636年)でのノリッジ司教マシュー・レン(英語版)への匿名の攻撃はプリンを再び星室庁送りにし、5000ポンドの罰金、残りの耳を失った。ジョン・フィンチ(英語版)男爵裁判官の提案で、プリンは左右の頬に煽動的誹毀者(seditious libeller)を意味する「S.L.」の焼印が押された。 プリンはピューリタン神学者ヘンリー・バートン(Henry Burton)やジョン・バストウィックと一緒にさらし台に処された。出獄後、プリンは「S.L.」の焼印をstigmata laudis(賞賛の印)を意味するというラテン詩を書いた。収監されてからはペンと紙を使うことは許されず、読書は聖書と正統的神学だけが許された。1637年にはカーナーヴォン城へ、次にジャージーのモン・オルゲル(Mont Orgueil)城へ移された。フィリップ・カートレット卿はプリンを手厚く扱い、1645年にカートレット卿が告発された時にプリンは卿を擁護した。収監中は詩を書いて過ごした。
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