日本の租界接収と租界の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 19:14 UTC 版)
「上海租界」の記事における「日本の租界接収と租界の終焉」の解説
北伐が開始されると、中国ナショナリズムの勃興により従来の権益を失うことを、日本は恐れた。そのためことあることに上海租界に対する干渉を繰り返した。1931年の満州事変と翌1932年の上海事変手始めとして、1937年にはついに中華民国との全面戦争に突入した。 中華民国は上海の日本軍を爆撃したが、多くの市民も巻き添えで亡くなった。中華民国軍は緒戦の奮戦も空しく南京、武漢を相次いで失い、上海より長江を2000キロ遡った重慶に立て籠もり、租界都市上海は日本軍占領地に浮かぶ孤島と化した。 1941年12月に太平洋戦争が勃発して、共同租界とフランス租界が日本軍に接収されるまでの4年間を、中国では「孤島期」と称している。上海は「孤島期」こそ、戦争景気により一時的な繁栄を誇ったものの、太平洋戦争開始以後は急速にさびれていく。上海の工業消費電力は、1936年を100とすると、1942年には50、1943年には40であった。 1943年には全市の中国人経営の工場の内約3分の2が倒産した。1945年初め以降、日本の敗戦が確実になると、大部分の中国人工場主は日本との合作を断り始めた。1945年になると、上海の中国人経営の工場の生産は事実上停止し、日本資本の工場の稼働率も戦前の生産能力のわずか4分の1に過ぎなくなった。 遡ること1943年1月、日本は南京の汪兆銘政権に、アメリカ・イギリスは重慶の中華民国に対し、それぞれ租界返還と治外法権廃棄をそれぞれ宣言した。 そして、日本の中華民国を含む連合国軍への敗戦後の1945年8月、国民党政権は全上海を接収した。ここに100年に及ぶ租界の歴史が終結した。
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