日本におけるダダ
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1920年(大正9年)『万朝報』8月15日号に記事「ダダイスム一面観」が掲載される。高橋新吉が1921年(大正10年)11月に辻潤宅を訪問し、ダダについて辻に教示し、辻はダダイストを名乗るようになる。1922年(大正11年)12月『ダダイズム』を 吉行エイスケが発刊。。翌年1923年(大正12年)1月には萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤、川崎長太郎らが『赤と黒』を創刊。同年2月には 高橋が詩集「ダダイスト新吉の詩」(中央美術社)を発表する(辻が編集した)。「DADAは一切を断言し否定する」で始まる。同年7月には村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助らがMAVOを結成し、翌年6月には『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』が玉村善之助、橋本健吉、野川隆らによって創刊される。日本では1922年(大正11年)から1926年(大正15年)がダダ運動のピークとなった。ダダイスムは以降も、中原中也、坂口安吾、宮沢賢治など広範にわたって影響を与えた。 辻潤 - 高橋よりダダイスムの運動を知り、自らをダダイストと名乗る。 『ダダイズム』(1922年12月-1923年?) - 吉行エイスケ発刊。 『赤と黒』(1923年1月-1924年6月) - 萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤、川崎長太郎、林政雄、小野十三郎など 高橋新吉 - 1923年詩集「ダダイスト新吉の詩」(中央美術社)ほか。 MAVO (1923年7月-1925年) - 村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎の五名が代表メンバー。高見沢路直(田河水泡)ものちに参加。 『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(1924年6月-1926年1月) - 編集人は玉村善之助、橋本健吉、野川隆。北園克衛、稲垣足穂、村山知義らも寄稿した。 中原中也 - 高橋新吉に影響を受け、「ノート1924」に、46篇のダダ的な作品を記す。 陀田勘助- 栃木県生まれ。本名、山本忠平。1922年、村松正俊と詩誌「ELEUTHERIA」、翌年から一年間は「鎖」、さらにその後継誌「無産詩人」を発刊した。1925年、アナーキズム系の詩誌「黒畑」を編集、労働運動に加わり1928年から共産党員となる。翌年検挙され獄中から書簡に詩を書き続けたが、原因不明の獄死を遂げた。1963年、渋谷定輔編『陀田勘助詩集』(国文社)が出版された。 北園克衛 坂口安吾 - ヴィトラックやツァラの詩を翻訳。 戦後は、1960年代にネオダダを標榜して高松次郎・赤瀬川原平・中西夏之らによるハイレッド・センターが「東京ミキサー計画」などのハプニングイベントを遂行した(→ネオ・ダダイスム・オルガナイザーズ)。 なお、『ウルトラマン』に登場した三面怪人ダダのネーミングは、ダダイスムに由来するという。ブルトンにちなむ「ブルトン」の名を持つ怪獣もウルトラマンに登場している。
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