新庄主計大佐の葬儀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 00:40 UTC 版)
新庄の葬儀が、いわゆる対米最後通告遅延問題に関係するという説が、近年、ノンフィクションライターである斎藤充功の著書等で唱えられている。 12月4日に逝去した新庄の葬儀は、12月7日(日本時間8日)。その日は真珠湾攻撃の日であり、後には開戦記念日として歴史に刻まれた日。この日、日本政府はアメリカ合衆国に対し最後通牒を行う予定であり、その通告文を国務長官コーデル・ハルに手渡す事をパープル暗号(当時既にアメリカに解読され大統領、国務長官に内容は把握されていた)で大使館に指令しており、その日時は現地ワシントン時間7日午後1時(日本時間8日午前3時)としていた。開戦前に交渉打ち切りの意志を伝えるというのが目的であったが、予定時刻を過ぎてもその最後通牒は行われず、真珠湾攻撃は午後1時15分(日本時間8日午前3時15分)に始まってしまった。その通告遅延の原因は、現地日本大使館側の怠慢で、外務省からの文書を英語に翻訳・浄書するのが遅れたからだというのが定説である。しかし斎藤調べによると、野村吉三郎・来栖三郎両大使らが新庄の葬儀に出席したことが原因であると言う。新庄の葬儀はワシントン市内のバプテスト派教会で執り行われたが、この葬儀に葬儀委員長を務めた駐米陸軍武官磯田三郎以下陸軍将校はもとより、複数の大使館職員や野村・来栖両大使も参加しており、その葬儀は現地時間で午後から行われ、来栖・野村大使らは葬儀が終ってから国務省に向ったと言うのである。ハル国務長官に最後通牒を手渡したのは午後2時20分、1時間20分の遅れだった。――以上が斎藤の唱える説である。この説には、発表当初から疑問の声が挙がっていたが、その後明らかになった、当日葬儀を取り仕切った葬儀社「ハインズ・カンパニー(The S.H. Hines Company)」の資料によると、そもそも会葬者芳名帳に、野村・来栖両大使の名前がないことが判明している。 一方、当時海軍の大使館付武官だった実松譲が12月7日の朝に出勤した際に「郵便受けに電報の束が大量に放置」されており、それがアメリカに対する交渉打ち切り通告の電信であったと戦後に記した内容が広く流布しているが、実際に実松が目にしたのは新庄に対する弔電であったと指摘されている。新庄の遺族が保管していた文書の中に、弔電が約30通含まれていることが研究者の塩崎弘明によって確認されており、この点についての傍証となっている。
※この「新庄主計大佐の葬儀」の解説は、「新庄健吉」の解説の一部です。
「新庄主計大佐の葬儀」を含む「新庄健吉」の記事については、「新庄健吉」の概要を参照ください。
- 新庄主計大佐の葬儀のページへのリンク