文庫の運営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 02:32 UTC 版)
文庫の運営は羽田野を中心に数人の幹事が担当した。羽田八幡宮文庫は閲覧室や講義室を併設しており、学問を志す者に広く公開したことを大きな特徴としている。閲覧のみならず貸出を一般にも認めていた文庫は他に例がなく、全国的にもまれな図書館運動であり、「知の共有化」における先駆的な取り組みといえる。 閲覧は、文庫の入り口の左右に1間四方の場を設けて、そこでおこなうこととした。安政3年(1857年)には同一屋敷内の文庫脇に「松蔭舎」を建設し、これは閲覧室と講義室(寺子屋的施設)を兼ねていた。東海道を往来する文人や国学者のなかには、津和野藩の平田門人大国隆正、その門弟で淡路国出身の鈴木重胤、安政の大獄に連座した江戸在住の儒者藤森弘庵など、羽田八幡宮文庫に立ち寄って講義を行う者もいた。大国隆正は、自著のなかで伊勢神宮の両文庫や熱田神宮の文庫と並べて当文庫に言及している。 貸出については、当初は他へは貸さず、直接文庫に来て読むようにという掲示の表現があり、それをめぐって議論もあったようであるが、実際には貸出がなされていた。貸出用の蓋付の箱が用意され、その蓋の裏には、借覧希望者は幹事に証文を出し、ひとり一回につき2部10巻まで、貸出期間は1か月を限度とすること、汚したり破損したりしたら弁償すること、他郷の者でも直接文庫にくれば閲覧できることなどといった決まりが書かれていた。なお、この箱は現存しており、4個確認されている。貸出期限が現在よりも長い1か月となっているのは、書写を考慮してのものと考えられる。 書籍の管理については、毎年6月に幹事が虫干しの作業をおこなっており、近傍に火災が発生した場合には幹事が文庫に参集することとしていた。 幹事の仕事は文庫外にもおよんでおり、東三河の式内社26座や文庫への道標を建立したり、安政元年(1854年)12月23日の安政東海地震の際には、吉田町の倒壊家屋182軒を見舞い、餅や味噌を配給するといった慈善活動を行っている。万延元年(1860年)に米価が高騰した際には、文庫米を提供した上に『きゝんのこゝろえ(飢饉の心得)』(中山右石著、羽田野敬雄補筆)を刊行して無償配布している。
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