文学におけるグロテスク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 03:11 UTC 版)
「グロテスク」の記事における「文学におけるグロテスク」の解説
フィクションにおいては、共感と嫌悪感の双方を抱かせるような人物が「グロテスク」であると通常考えられている(嫌悪感のみを抱かせる人物は単なる悪者か怪物である)。身体的に奇形の、もしくは知的に遅れた人物がその明確な例であるが、身を竦めさせるような社会的特質を持つ人物もこれに含められる場合がある。読者はグロテスクな人物の肯定的な側面に興味を引かれ、その人物が暗黒的な側面を克服できるのかを見届けるべく読み進めるのである。シェイクスピアの『あらし』では、キャリバンの人物像は単なる軽蔑や嫌悪感よりもニュアンスのある反応を引き起こすものとなっている。 ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダムの傴僂男』は文学で最も有名なグロテスクの1つである。フランケンシュタイン博士の作り出した怪物や、『オペラ座の怪人』や『美女と野獣』の野獣もまたグロテスクと考えられている。ロマン主義的なグロテスクの例はエドガー・アラン・ポー、E.T.A.ホフマン、シュトゥルム・ウント・ドラング文学やローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』などにも見出される。ロマン主義でのグロテスクは、笑いと豊饒性に満ちた中世のそれに比して遥かに陰惨なものである。 グロテスクは、少女が彼女の幻想世界で幻想的なグロテスクたちに出会うというルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』によって新しい形を与えられた。キャロルは人物たちを、より醜悪でなく児童文学にも適しているが、しかもなお全くもって奇妙なものにすることに成功している。 アメリカ合衆国の南部ゴシックは、しばしばグロテスクと同一視されるジャンルであり、ウィリアム・フォークナーがよくその「舞台監督」として引き合いに出される。フラナリー・オコナーは「なぜ南部の作家たちが特に奇形について書くのかと問われたら常に、我々が未だにそうした人々がいるのを認めるからだと答えている」と書いている。頻繁にアンソロジーに収録されるオコナーの短篇『善人はなかなかいない』では、連続殺人魔のミスフィット(社会不適合者)は明らかに不具な精神を持ち、人命に全く頓着しないが、真実の探求に駆り立てられている。この作品でのより目立たないグロテスクは、礼儀正しく、子煩悩なおばあさんであり、彼女は自分自身の驚くべき自己中心さに気が付いていない。オコナーの作品でしばしば引用されるもう1つのグロテスクの例は短篇『聖霊の神殿』である。合衆国の小説家レイモンド・ケネディもグロテスク文学の伝統に結び付けられる作家である。 「グロテスク演劇」はイタリアで1910-1920年代に活動した反自然主義演劇の劇作家たちの一派を指し、不条理演劇の先駆者であったとしばしば見做される。
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