政宗の若林城
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慶長5年12月24日(1601年1月28日)より仙台城を築いた伊達政宗は、慶長年間(1596年 - 1615年)の終わりに広瀬川対岸の花壇の地に屋敷を作り、そこで日を過ごすことが多くなった。はじめは一時的な遊興や休息に用いていたが、山城の不便さのせいか、しだいに生活の重心を花壇に移していった。もっと離れたところにさらに壮大な規模で造営した政宗個人の居所が、若林城である。 寛永4年2月23日(1627年4月9日)に、幕府老中土井利勝・酒井忠勝・井上正就・永井尚政が、伊達政宗に仙台屋敷構を許可したのが、若林城の史料の初見である。それは、絵図を出して屋敷の普請許可を願った政宗への返事として、「心のままに普請あるべし」と許したものであった。一国一城令との関係で屋敷と称したが、対内的には若林城といった。ただし、偽装して屋敷と称したのではなく、幕府は内実を承知していた。 若林城とそれに関連した普請の大略を記した同年5月27日付の覚書 があり、この頃には普請が始まったと考えられる。城まわりには侍の屋敷と町人が住む町が配置され、若林町奉行が置かれた。家臣には、仙台城下とは別に若林城下に屋敷が割り当てられた。 工事中、寛永5年5月10日(1628年6月11日)の大雨で北の土居が破損したことを知った政宗は、20日にかやを敷き詰めて作り直すよう仔細に指示した。11月16日に政宗が移り住んで祝った。城下には仙台とは別に家臣の屋敷が設けられ、町人も住み、仙台と別の独立した城下町の体裁をとった。 この後政宗は、国元にいる間もっぱら若林城に住み、仙台城には年始など特別の行事にしか登らなかった。花壇屋敷はほとんど使われなくなった。政宗は死ぬまで隠居しなかったが、仙台城には子の伊達忠宗が住んで幕府から既に大名としての待遇を受けており、政治の実務は忠宗に委ねられる部分が多かった。後世、若林城が政宗の隠居城と呼ばれた 所以である。 寛永13年4月20日(1636年5月24日)、政宗は病をおして江戸に発つに際して、館の西南に杉を植え、城の周りの堀一重を残してそのほかは田畑とせよと命じた。死を予期して言い残したもので、政宗は5月に江戸で死んだ。同年12月1日に若林御牒蔵が火事にあって領内の検地牒などが失われた。火災にあった建物を城内のものとするか、城の外の施設とするかは見方が分かれる。。
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