政宗の若林城とは? わかりやすく解説

政宗の若林城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 16:28 UTC 版)

若林城」の記事における「政宗の若林城」の解説

慶長5年12月24日1601年1月28日)より仙台城築いた伊達政宗は、慶長年間1596年 - 1615年)の終わり広瀬川対岸花壇の地に屋敷作り、そこで日を過ごすことが多くなった。はじめは一時的な遊興休息用いていたが、山城の不便さのせいか、しだいに生活の重心花壇移していった。もっと離れたところにさらに壮大な規模造営した政宗個人居所が、若林城である。 寛永4年2月23日1627年4月9日)に、幕府老中土井利勝酒井忠勝井上正就永井尚政が、伊達政宗仙台屋敷構を許可したのが、若林城史料初見である。それは、絵図出して屋敷普請許可願った政宗への返事として、「心のままに普請あるべし」と許したものであった一国一城令との関係で屋敷称したが、対内的には若林城といった。ただし、偽装して屋敷称したではなく幕府内実承知していた。 若林城とそれに関連した普請大略記した同年5月27日付の覚書 があり、この頃には普請始まった考えられる。城まわりには侍の屋敷町人が住む町が配置され若林町奉行置かれた。家臣には、仙台城下とは別に若林城下に屋敷割り当てられた。 工事中寛永5年5月10日1628年6月11日)の大雨で北の土居破損したことを知った政宗は、20日にかやを敷き詰め作り直すよう仔細に指示した11月16日政宗移り住んで祝った城下には仙台とは別に家臣屋敷設けられ町人住み仙台別の独立した城下町体裁をとった。 この後政宗は、国元にいる間もっぱら若林城住み仙台城には年始など特別の行事にしか登らなかった。花壇屋敷はほとんど使われなくなった政宗は死ぬまで隠居しなかったが、仙台城には子の伊達忠宗住んで幕府から既に大名として待遇受けており、政治実務は忠宗に委ねられる部分多かった後世若林城政宗隠居城と呼ばれた 所以である。 寛永13年4月20日1636年5月24日)、政宗は病をおして江戸に発つに際して、館の西南植え、城の周りの堀一重残してそのほか田畑とせよと命じた。死を予期して言い残したもので、政宗5月江戸で死んだ同年12月1日若林御牒火事にあって領内検地牒などが失われた火災にあった建物城内ものとするか、城の外の施設とするかは見方分かれる。。

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