政学派として
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1916年(民国5年)6月の袁世凱死後、国会が回復したため、楊永泰は再び議員活動を再開する。国会においては、梁啓超らが組織した憲法研究会に対抗する憲法商榷会に所属した。同年11月、李根源、張耀曽、谷鍾秀、鈕永建らとともに、政学会を組織し、楊は13人の幹事の1人となった。これが政学派の始まりである。1917年(民国6年)7月、国務総理段祺瑞との対立から、楊ら政学会の構成員たちは、南下して広州入りする。そして孫文を支持し、国会非常会議を開催した。 その後、孫文は陸海軍大元帥に選出された。しかし楊永泰ら政学派は、岑春煊を領袖として擁立し、広西派(桂系、旧広西派)の陸栄廷らと連合して、孫と敵対した。その結果、1918年(民国7年)5月、大元帥制が7総裁による集団指導体制に改められ、岑が主席総裁となり、政学派と広西派が南方政府の主導権を握った。楊は、軍政府財政庁長、広東省財政庁長、広州市政分所督弁、広東省長などを歴任した。 しかし、次第に政学派と広西派の権力独占への反発が高まる。1920年(民国9年)に孫文、唐継尭(雲南派)らが反撃に転じた。この結果、政学会は解散に追い込まれる。10月には、孫文らを支持する粤軍(広東軍)の陳炯明の攻撃を受けて岑春煊は下野し、広西軍は広東から駆逐された。楊永泰も逃亡し、その後しばらくは、北京政府側の要人として活動することになる。
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