政宗の撫で斬りとは? わかりやすく解説

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政宗の撫で斬り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/10 11:13 UTC 版)

小手森城」の記事における「政宗の撫で斬り」の解説

1585年天正13年8月27日伊達政宗による全城兵殺戮が行われた。 1585年天正13年)、出羽国米沢城主・伊達政宗小浜城主・大内定綱攻撃のため、河股(現・福島県伊達郡川俣町方面から塩攻め入り小手森城囲んだ8月27日政宗は城へ総攻撃をかけ、自ら最前線に立ち、鉄砲八千丁を撃たせるなどの激し攻撃その日のうちに落城させた。このとき、政宗城主菊池顕綱はじめとする敵将敵兵だけでなく、城内にいた女や子供もまでも殺害したといわれている。同日付で伯父山形城主・最上義光送った書状には、城主菊池顕綱大内定綱親類など500人を討ち取ったほか、城内いたものは人のみならずに至るまで全て撫で斬りにし、その数は総勢1,000人に及んだ記載している。ただ、数については正確な数字ははっきりとわかっておらず、翌28日付で家臣後藤信康送った書状によれば200人、9月2日付で資福寺虎哉宗乙宛の書状では800人と記載されている。また、籠城中に内部から切り崩され降った者もいたとみられている(大内氏庶流中にも政宗から本領安堵得たものや仕えた者がいるため)。しかし、数はどうであれ、城内の人を殺戮したのは事実であり、大内定綱やその一派言うに及ばず周辺大名住民にも強烈なインパクト残し、「小手森城撫で斬り」として後世まで語り継がれることとなった伊達氏ゆかりの祝歌として有名なさんさ時雨」は小手森城のある安達郡一帯では現在でも歌われることはないという。 1987年昭和62年)に放映されNHK大河ドラマ独眼竜政宗』では第11話の「八百人斬り」で、このときの撫で斬り様子描かれている。

※この「政宗の撫で斬り」の解説は、「小手森城」の解説の一部です。
「政宗の撫で斬り」を含む「小手森城」の記事については、「小手森城」の概要を参照ください。

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