拷問と殉教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 16:58 UTC 版)
「フランシス・ザビエル・フォード」の記事における「拷問と殉教」の解説
拷問者の手によるフォード司教の処遇は、嘉応で司教の秘書であり、また同僚の宣教師であった修道女ジョーン・マリー・ライアン(Sr. Joan Marie Ryan)により証明されている。彼は中国共産党の牢獄で亡くなったと知られている最初のアメリカ人カトリック司教であり、また4人目のアメリカ人であった。 1950年12月、中国共産党はフォード司教とジョーン・マリー修道女を軟禁し、でっち上げの諜報活動の罪で告訴した。裁判にはかけられなかったが、司教は4ヶ月後に家から連行され、後には1918年以来布教活動をしていた幾つかの都市で公に引き回されて殴られ、屈辱を受けた。 ある町では共産党員が組織した群衆の殴打が激しかったため、共産党の護衛が恐怖で逃げ出す程であった。何度も地面に叩きつけられたが、フォード司教はこの苦しい状況の最中でも護衛が戻るまで静かに歩くよう努めた。他の町では、彼の首は濡れたロープで縛られ、ロープが乾いて縮むにつれて殆ど窒息しそうになった。他のロープが尻尾のように彼のガウンの下から引っ張るために縛られた。彼等を辱めるため、共産党員はジョーン・マリー修道女の前で服を脱ぐよう強制した。最後に修道女が生前の司教を見たのは司教の死の直前の1952年の2月であった。修道女は、司教のかつては黒かった髪が全く白くなり、あまりにもやつれたために、同室の囚人は司教が「ジャガイモの袋のように見えた」と言ったと報告した。 彼の司教区は、共産党がその地のカトリック共同体を制圧していなければ、中国人聖職者に委ねられる最初のメリノール会の区域であった。フォード司教はメリノール会の最初の殉教者であり、中国共産党の手による最初の殉教者であった。彼の亡骸は、中国共産党により故意にばらまかれた為、発見されていない。彼の死までフォード司教は司祭に叙階されて、34年と司教に聖別されて16年であった。
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