投資会社として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 18:46 UTC 版)
国立銀行設立後、ベルギー総合会社の主要株主にパリバやユニオン・ミニエールが名を連ねた。証券投資専門の子会社をつくり、鉱工業企業株を長期にわたり支配した。レオポルド2世のとき、王室がベルギー総合会社の持株を政府にふっかけて売却した。公私混合形態となったベルギー総合会社は1886年からの不況を耐えぬき、やがて露仏同盟を利用した鉱業・鉄道投資と列強各国の帝国主義発展に力を入れて、支店数を19世紀後半の半世紀で20倍ほどに増やした。 20世紀初頭に中国の諸都市とロンドン、パリ、カイロに拠点をもった。コンゴと南米の国策銀行設置にも加担した。 第一次世界大戦ではドイツ帝国に占領されてしまい、緊急措置として本社をロンドン支店へ移した。母国ではドイツ帝国がベルギー国立銀行の発券を禁止したので、ベルギー総合会社が代行したが、戦中におよそ20億ベルギーフランを発行した。しかも事業拡大を続け、ルクセンブルク、ニューヨーク、イスタンブール、香港などへ進出したうえ、イスパニア・東欧にも利権を獲得した。1922年時点のバランスシートは会社がどれほど膨張したかを示していた。 世界恐慌が訪れ数え切れない企業が損害を出したが、ベルギー総合会社も例外ではなかった。抜け道だらけの銀証分離規制をかいくぐり、1934年8月のデクレで持ち株会社と新設の銀行部門(Société générale de banque)に分かれた。後者は直ちにデビアスや大西洋銀行(Banque Transatlantique)と連携し、ダイヤモンド顧問会議(now Antwerp Diamond Bank)を召集した。1941年、ケミカル銀行(現JPモルガン)がADBニューヨーク特別代理店を設置するのを助けた。第二次世界大戦中はナチス・ドイツに占領されてしまい、平常業務が滞るくらいだったので会社の成長はなかったとされている。 1955年コックリル・ウーグレ(Cockerill-Ougrée、スラン工場とウーグレ・マリエの合同、現アルセロール・ミッタル)コンツェルンを引きつづき傘下におき、1957年ロスチャイルドをともないリオ・ティントをカナダへ進出させた。英米ドイツに対してはソルベーコンツェルンと出資により事業関係をもった。ソルベーは当時、アライド・ケミカル(現ハネウェル)の20%、インペリアル・ケミカル・インダストリーズの25%を支配し、またIG・ファルベンインドゥストリーとも結合していた。
※この「投資会社として」の解説は、「ベルギー国立銀行」の解説の一部です。
「投資会社として」を含む「ベルギー国立銀行」の記事については、「ベルギー国立銀行」の概要を参照ください。
- 投資会社としてのページへのリンク