打倒双葉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 16:28 UTC 版)
食料品商の家に生まれ、宇品尋常高等小学校を卒業後は家業を手伝う。1931年に市内で開催された関西中学校相撲選手権を観戦したところ、藤嶌にスカウトされて角界入り。1932年2月場所に出羽海部屋から“永田”の四股名で初土俵を踏む。序二段で「安藝ノ海」と改名すると、順調に昇進して1936年1月場所に新十両、1938年1月場所では、23歳で新入幕を果たした。 当時の出羽海部屋では、「打倒双葉」を目指して場所ごとに作戦会議を開いたという。その中から「どうやら双葉山は右に食い付かれるのを嫌がる」「無理な投げを打って体勢を崩すこともあるので、そこを掬うか足を掛けるかしてはどうか」という作戦が笠置山勝一を中心に生まれた。笠置山は当時としては非常に珍しい大卒(早稲田大学卒業)の「インテリ力士」で、笠置山自身が著した「横綱双葉山論」でも取り上げられた。また、それまで何度も双葉山と対戦したことのある力士では弱点も知られていることもあり、入幕して初の上位挑戦であり、かつ前年の満州巡業時に双葉山から稽古相手に指名されながらも体調不良で断り、その夜のうちに入院(盲腸炎だと伝わる)して、結果的に稽古でも取り組んだことのない安藝ノ海が「打倒双葉」の期待を担うことになった。
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