打倒、中野浩一
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1975年の日本選手権決勝以後、福島は特別競輪に参加こそすれ、上述の通り、決勝戦へも駒を進められないといった苦悩の状態が続いていた。そんな中、師匠の鈴木保巳が、福島が中学時代、柔道をやっていたことに着眼して自転車に乗る練習ではなく、柔道の稽古をさせるというユニークな練習方法を考えた。すると1978年(昭和53年)あたりから福島は復調しはじめ、特別競輪においても徐々に活躍できるようになっていた。 そして、福島はどうしてもこの選手を破ってタイトルを再び取りたいと思っていた。それが中野浩一である。 同年、西宮競輪場で第21回オールスター競輪が行われ、決勝で福島と中野が対戦。正攻法に出た中野に対し、福島も、また他の選手も上昇しようとはせず、中野はそのまま逃がされる形となった。つまり、中野を後方においやれば、当時世界自転車選手権プロ・スクラッチ2連覇中の世界一のダッシュ力があるために太刀打ちできないが、中野を逃がせて自らが捲る展開になれば勝てると踏んでいた。さすがは輪界一の「策士」といえよう。まさにその通りの展開となり、8番手に控えた福島は満を持してバックから捲りに出た。 ところが、先に捲りを放っていた高橋健二が2センター付近で落車。この影響からか、福島のスピードは直線に入って鈍り、中野には先着したものの、マークしていた天野康博に最後抜かれ、2着に終わった。4年ぶりの特別競輪制覇に挑んだ福島だが、今度は高橋の落車にその成就を遮られ、その後福島に特別競輪制覇のチャンスは巡ってこなかった。同時に、この当時また国内無冠だった中野は次に行われた競輪祭・競輪王戦で念願の初タイトルを奪い、その後、「ミスター競輪」として君臨するのは言うまでもない。 なおこの一戦について、鈴木保巳はもしここで福島が優勝していれば中野の時代が訪れるのはもう少し遅れていたと思われると月刊競輪誌上にて述べており、中野が「ミスター競輪」としての第一歩を歩んだ大会であるとともに、三強時代の最後の生き残りともいうべき福島の時代はここで事実上完全に幕を下ろしたということがいえる。
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