打倒双葉の参謀役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 23:51 UTC 版)
双葉山定次が40連勝、50連勝と徐々に連勝記録を伸ばしていくと、出羽海部屋一門では「打倒双葉」を合言葉に、双葉山に勝利して連勝記録を止めるための対策・研究に明け暮れる日々が続いていた。その参謀役を任されたのが笠置山で、雑誌「改造」(1938年6月号)に「横綱双葉山論」として双葉山に勝利するための対策を論文にして寄稿した。この説は、1939年1月場所4日目に自らが授けた作戦(双葉山の右目が失明状態であることから、双葉山の右足を狙って掬い投げ、または外掛けで倒す)によって安藝ノ海節男が連勝を止めたことで実証された。 笠置山自身は本場所で双葉山には一度も勝利できなかったが、「立浪三羽烏」と呼ばれた3力士の残り2名(名寄岩静男・羽黒山政司)には強く、1944年1月場所では羽黒山を得意とする二枚蹴りで破る(金星を獲得)など活躍した。 理路整然とした語り口から、入幕直後から言論活動の依頼が多く舞い込み、巡業先での講演や雑誌への寄稿等をこなしていた。
※この「打倒双葉の参謀役」の解説は、「笠置山勝一」の解説の一部です。
「打倒双葉の参謀役」を含む「笠置山勝一」の記事については、「笠置山勝一」の概要を参照ください。
- 打倒双葉の参謀役のページへのリンク