打出村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 07:00 UTC 版)
江戸時代になると当地は愛知郡打出村と称すようになった。当時の打出村は、概ね現在の打出町の全域と打出、打出本町、法華西町、野田、打中、中郷、中花町の各一部に当たる。尾張藩領で、宮宿の助郷村であった。打出村の集落は、西井筋の東側に位置しており、耕地面積に対して家数が多かったため周辺の中島新田の田を耕していたという。農業を中心とする村であったが、40軒ほどが筵を生産しており、禰宜町(現在の名駅南一丁目)の問屋に販売していたという。『寛文村々覚書』によると、当時の打出村は概高283石、家数27、人口135、馬9頭。283石の全てが藩士成瀬大内蔵の給地であった。 打出村は1889年(明治22年)に、合併により御厨村大字打出となった。その後荒子村大字打出を経て、1921年(大正10年)に名古屋市南区に編入され打出町となった。
※この「打出村」の解説は、「打出 (名古屋市)」の解説の一部です。
「打出村」を含む「打出 (名古屋市)」の記事については、「打出 (名古屋市)」の概要を参照ください。
- 打出村のページへのリンク