フラワーラインに反旗を翻す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 20:37 UTC 版)
「藤巻昇」の記事における「フラワーラインに反旗を翻す」の解説
当時の競輪界といえば、ヤング全盛時代と言われる一方で、中野浩一が世界選プロ・スクラッチの連覇記録を更新していくなどして、徐々に「中野時代」を築こうとしていた頃でもあった。 しかし一方で中野は地元の九州ではほとんど「孤立無援」の状態であり、世界選で連覇を果たし、1977年には賞金王にも輝いたにもかかわらず、特別競輪はなかなか優勝できなかった。 ましてや、打倒中野浩一を標榜していた「フラワーライン」が丁度本格的にこのあたりから「結成」され、中野は1978年の競輪祭競輪王戦で漸く初の国内タイトルを手にするものの、以後もなかなか特別競輪のタイトルは手にできなかった。 そんな中野に手を差し伸べたのが藤巻であった。 藤巻は中野の連覇時代の初期の頃に世界選へ毎年出場しており、そこで中野と寝食をともにすることにより、中野浩一という男を競輪界のリーダーに仕立ててやらねばならないという気持ちが芽生えたようだ。また、藤巻は、徒党を組んで特定の選手を封じ込めるやり方は競輪の本質から外れているという考えも持っていたようだ。 したがって、フラワーラインが勢力を拡大して、北日本地区も完全に飲み込もうとしていた頃に、藤巻は断固としてフラワーへの協力を拒否。中野をはじめ、愛知の高橋健二や久保千代志ととも世界選繋がりでラインを組むようになり、やがて井上茂徳が台頭してきて九州軍団と呼ばれる一大勢力を築き上げるようになると、藤巻はどちらかといえば中野との繋がりから、九州に「味方」するようになる。 そしてこのことが、フラワーラインという大勢力にくみしないということから、藤巻がドンと呼ばれる所以にもなっていく。ただし同じ北日本地区である菅田順和はフラワーラインに属していたことから袂を分けており、北日本地区のみ両勢力が混在するという特異な状況を生み出した面もある。
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