フラワーラインの結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/26 05:31 UTC 版)
「フラワーライン」の記事における「フラワーラインの結成」の解説
1975年にデビューした中野浩一は、デビューしてから18連勝を果たすなどセンセーショナルな活躍を新人の頃からするようになったことから、一躍「九州のハヤブサ」というニックネームを授かるようになった。中野は言わずと知れた世界選(世界自転車選手権)V10を後に果たすわけだが、とりわけ特徴的だったのはダッシュ力であった。 普通の選手ならば、トップスピードに乗せるためにはある程度助走距離が必要だが、中野の場合はトップスピードに乗せるまでの助走距離が大変短いことが特徴的で、持ち前のダッシュ力で相手を圧倒するレースが目立った。 一方、日本の地域地図上においては、東京と千葉は隣県でありかつ関東地方に属しているが、競輪の場合は東京と千葉は地区が違うことになっている。東京は関東地区、千葉は南関東地区に分けられており、競輪の競走では、例えば東京と埼玉の選手が乗り合わせた場合には必然的にラインを組むことになるが、東京と千葉は地区が違うということでラインを組んで競走することが少なかった。 そのため、お互いに潰しあいのようなレースも生じてくるわけだが、そこへもってきて、中野が当時はただ一人捲って勝つレースが多くなったことから、何とかして中野を破る策はないかと考え出されたのが「フラワーライン」だった。
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