手形休下町とは? わかりやすく解説

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手形休下町

読み方:テガタキュウカマチ(tegatakyuukamachi)

所在 秋田県秋田市

地名辞典では2006年8月時点の情報を掲載しています。

〒010-0863  秋田県秋田市手形休下町

手形休下町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/28 23:22 UTC 版)

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手形休下町
秋田東中学校
手形休下町
手形休下町の位置
北緯39度43分40.44秒 東経140度7分44.04秒 / 北緯39.7279000度 東経140.1289000度 / 39.7279000; 140.1289000
日本
都道府県 秋田県
市町村 秋田市
人口
2016年(平成28年)10月1日現在)[1]
 • 合計 385人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
010-0863
市外局番 018[2]
ナンバープレート 秋田

手形休下町(てがたきゅうかまち)は秋田県秋田市にある郵便番号は010-0863。住居表示実施済み。

地理

秋田市の東部、手形地域の中では西部に位置する。西端はJR奥羽本線、南端は手形蛇野赤沼街道(秋田県道28号秋田岩見船岡線の旧道)である。

西は奥羽本線を挟んで千秋北の丸千秋中島町、北は手形からみでん手形田中、東は手形住吉町、南は手形新栄町に接する。

歴史

添川口跡

久保田城下で小禄家臣の侍町だった旧手形休下町・手形本新町の各一部に相当するが、この地区は1896年(明治29年)の秋田歩兵第十七聯隊設置に伴い陸軍練兵場となって1945年(昭和20年)まで区画が消滅していたため、町内の道路などは北東部にある馬出(添川口[3])の一部を除き旧城下町の痕跡を残していない[4]

1966年(昭和41年)の住居表示実施時、手形侍町の中では唯一旧町名が継承されたが、区画は変更されている。

(旧)手形休下町

(旧)手形休下町は、久保田城の城下町の一角を構成する侍町で、北ノ丸に対し外堀を挟んだ東側に位置する。久保田手形休下町・秋田手形休下町とも呼ばれた[5]。「梅津政景日記」寛永8年3月8日(1631年4月9日)の条に町割の記録がある[3]。西側南端に佐竹氏の祈祷所である宝鏡院があり、周囲より高台であるため宝鏡院山と呼ばれた[3]。東側南端に宝鏡院末寺遍照寺があり、続いて宝鏡院の御祈念衆(藩抱えの祈祷師)である威徳寺・泉光院・成福院・松門院・常堅院・梅真院の六供奉寺が並んでいた。そのため「手形斎家町」(てがたさいかまち)とも「手形六供町」「手形六句町」(てがたろっくまち)とも呼ばれた[5][3]

北端で旭川に面し、川岸に藩主の御休所があった。この御休所が休下町の名の由来である[5][6]。御休所の脇には「御休橋」が架けられており[6]、泉山(現在の天徳寺山)の御鷹野へ繋がる橋であるため「御鷹野橋」とも呼ばれた[6]

沿革

  • 1631年8月7日(寛永8年7月10日) - (旧)手形休下町が町割される[5]
  • 1664年(寛文4年) - 黒沢重巽によって私塾の四如堂が設立される[5]
  • 1896年(明治29年) - 秋田歩兵第十七聯隊設置に伴い、手形休下町・手形本新町・手形西新町・手形東新町が陸軍練兵場として使用され、区画消滅[4]
  • 1945年(昭和20年) - 練兵場廃止。町名復活し、宅地化(一部は一時農地化)が始まる。
  •  ????年 - 手形休下町と手形本新町に跨って、秋田市立手形中学校が開校する。
  • 1953年(昭和28年)4月1日 - 手形中学校と長野町(現在の中通二丁目)の久保田中学校が統合され、手形中学校地に秋田市立秋田東中学校が開校する。
  • 1966年(昭和41年)4月1日 - 住居表示実施に伴い、(新)手形休下町が成立する。

町名の変遷

以下はすべて住居表示実施に伴う変更。

実施前 実施年月日 実施後(各町ともその一部)
(旧)手形休下町 昭和41年4月1日 千秋北の丸
せんしゅうきたのまる
昭和41年4月1日 千秋中島町
せんしゅうなかじままち
昭和41年4月1日 手形からみでん
てがたからみでん
昭和41年4月1日 (新)手形休下町
てがたきゅうかまち
昭和41年4月1日 手形田中
てがたたなか
実施後 実施年月日 実施前(各町ともその一部)
(新)手形休下町 昭和41年4月1日 新中島土手町
しんなかじまどてちょう
昭和41年4月1日 (旧)手形休下町
てがたきゅうかまち
昭和41年4月1日 手形本新町
てがたもとしんまち

世帯数と人口

2016年(平成28年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

町丁 世帯数 人口
手形休下町 194世帯 385人

交通

鉄道

町内に鉄道は通っていない。最寄り駅は中通七丁目にあるJR東日本奥羽本線羽越本線秋田新幹線秋田駅

バス

  • 秋田中央交通
    • 仁別リゾート公園線、秋田温泉線
      • - 手形休下町 - 東中前 -
    • 楢山大回り線
      • - 東中前 - 明徳コミュニティセンター前 -

道路

  • 手形蛇野赤沼街道

施設

参考文献

脚注

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  1. ^ a b 秋田市年齢別・地区別人口(平成28年10月1日現在:平成27年国勢調査からの推計値)” (日本語). 秋田市 (2017年2月1日). 2017年7月7日閲覧。
  2. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
  3. ^ a b c d 「図説 久保田城下町の歴史」95頁。
  4. ^ a b 「図説 久保田城下町の歴史」93頁。
  5. ^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」438頁。
  6. ^ a b c 「図説 久保田城下町の歴史」97頁。

外部リンク


(旧)手形休下町

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「手形休下町」の記事における「(旧)手形休下町」の解説

(旧)手形休下町は、久保田城城下町一角構成する侍町で、北ノ丸対し外堀挟んだ東側位置する久保田手形休下町・秋田手形休下町とも呼ばれた。「梅津政景日記寛永8年3月8日1631年4月9日)の条に町割記録がある。西側南端佐竹氏祈祷所である宝鏡院があり、周囲より高台であるため宝鏡院山と呼ばれた東側南端宝鏡院末寺遍照寺があり、続いて宝鏡院御祈念衆(藩抱え祈祷師)である威徳寺泉光院・成福院松門院・常堅院・真院の六供奉寺が並んでいた。そのため「手形斎家町」(てがたさいかまち)とも「手形六供町」「手形六句町」(てがたろっくまち)とも呼ばれた北端旭川面し川岸藩主御休所があった。この御休所が休下町の名の由来である。御休所の脇には「御休」がけられており、泉山現在の天徳寺山)の御鷹野へ繋がるであるため「御鷹野」とも呼ばれた

※この「(旧)手形休下町」の解説は、「手形休下町」の解説の一部です。
「(旧)手形休下町」を含む「手形休下町」の記事については、「手形休下町」の概要を参照ください。

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