所在地と伽藍とは? わかりやすく解説

所在地と伽藍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 14:43 UTC 版)

崇福寺跡」の記事における「所在地と伽藍」の解説

その所在地について文献資料には「大津宮北西長等山」(『三宝絵詞』『扶桑略記『今昔物語集』)で「志賀の山越え途中」(『大和物語137段)などと記される長等山大津宮から南西方角にあり矛盾があるが、9世紀頃には大津宮粟津にあった考えられていた事からの錯誤だと考えられている。 伽藍について『扶桑略記』(天智七年正月十七日条)と『延暦僧録』(近江天皇菩薩伝)の記述には若干祖語があるものの、読み下すおおよそ以下のようになる。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}金堂一基は五間檜皮葺丈六弥勒菩薩像一体と両脇侍に菩薩像金堂の東に講堂一基五間檜皮葺薬師如来像一体と脇侍二体。金堂南谷橋廊東西2本け、南尾根小金一基三間檜皮葺阿弥陀如来像一体と両脇侍に菩薩像小金堂の東に三重塔一基檜皮葺四方仏と両脇侍に菩薩像 以上にあるよう所在地伽藍文献資料遺跡良く対応しているとされる。ただし、二つ史料何時の姿を伝えたものかは不明である。中西常雄は『延暦僧録』は延暦年間、『扶桑略記』の内容崇福寺縁起伝わっているが10世紀から12世紀ごろの姿と推測している。あわせて扶桑略記』には檜皮葺板葺記載があり、崇福寺記録に残る最古檜皮葺とされることもあるが、白鳳期の瓦が出土していることから創建時の姿であった疑問視する説もある。なお文資料にあるが未発見の堂宇として、燈籠鐘楼僧房食屋、厨坊、器室、湯屋法華堂などがある。また『延暦僧録』にある「造食屋厨坊器室高脚」の記述や『扶桑略記』にある「法華堂南谷底に崩れ落ちた」の記載より一部堂宇懸造であった可能性指摘されている。

※この「所在地と伽藍」の解説は、「崇福寺跡」の解説の一部です。
「所在地と伽藍」を含む「崇福寺跡」の記事については、「崇福寺跡」の概要を参照ください。

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