戸山との師弟関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:21 UTC 版)
師匠の戸山は、小島を厩舎に受け入れた際の印象を、「子供の時から父親が仕事の関係でいつも留守がちだったんで、父親のあたたかみを知らずにいたと感じた」といい、「私が父親の代わりとなって、あたたかい人生を歩ませてやりたいと思ったんです」と語っている。その言葉通り、貞博と弟弟子の小谷内秀夫は厳しい師弟関係の傍らで、戸山から「本当の父親以上の愛情をもって接していただいた」と、その死後出版された著書『鍛えて最強馬をつくる』に寄せた。 また戸山は、「調教師というのは、少なくとも師匠と言われるからには、人を育てることも大きな仕事である」という信念に基づき、必ずしも成績上位ではない両者を起用し続け、馬主に対しても、馬の預託に際しては両者を専属騎手とする契約を結ばせていた。小島と小谷内は先の寄稿において、戸山に対する感謝の念とともに「師匠は『それがオレの信念だ』と当然のような顔をしていたが、私たちのレースぶりを見て、心の中で歯ぎしりすることも多かったのではないかと思う。私たちがそれに十分報いることができなかったのが残念である」と反省を述べた。一方、戸山による小島の評価は「人気から比べると技術の方が上。人気よりも腕があるという言い方よりも、腕よりも人気がない」というもので、「小島の成績が上がらないのは、直言居士で仲間受けが悪い自分の弟子で、避けられているため」との見解を示し、「私は小島に、スマンコッチャっていう気持ちがあります」と吐露していた。 戸山の死去当日、小島は日本ダービー出走のドージマムテキに騎乗するため東京競馬場におり、訃報に接して「騎乗を辞退して、先生の元に行かせて欲しい」とJRA職員に嘆願したが、「レースに騎乗することが先生への供養になる」と説得され、そのまま東京にとどまったというエピソードがある。小島はのちに騎手生活のなかで最もショックだった出来事として戸山の死を挙げた。 小島は調教師転身に当たり、「馬が走るのはもちろんですけど、人づくりの面もいつも頭に入れておきたいですね。余裕ができたら、騎手を育ててみたいと思っています」と語り、開業後は自厩舎に所属した田嶋を積極的に起用し続けた。
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