戸山の死去から引退まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:21 UTC 版)
鶴留明雄 森秀行 翌1993年の日本ダービー前日、癌に冒されていた戸山が肝不全で死去し、厩舎は解散となった。小島はこれに伴いフリーとなったものの、旧戸山厩舎所属馬の多くを引き継いだ弟弟子の森秀行が、開業数カ月後より小島と、同じく戸山厩舎所属だった小谷内秀夫を乗せない方針を打ち出したことなどもあり騎乗数が急激に減少し、一時は調教をつける馬さえいない状態となった。小島は引退を考え始めたが、当時有力な調教師となっていた鶴留が状況を聞きつけて小島の支援を始め、鶴留厩舎に所属する有力馬の主戦騎手を任されるようになった。戸山が常に小島と小谷内を乗せる方針だったこともあり、情実を切った森には批判の声も寄せられたが、森はこれに対し「僕が自分でやったことやから、何言われてもいいんです。書いてください。僕がそうしたのは、馬はあくまで馬主のものだということ。調教師のものじゃないんです。馬が僕のところへ来たのも馬主の意志だし、違う騎手に乗せてくれとも馬主から言われた。僕はそれに従ったまでです」と反論している。作家の木村幸治は、「戸山はベッドから『俺の悪いところは真似るな』と言い続けた。馬主を激怒させてまで、自分の弟子である騎手の方を可愛がった戸山の生き方が、真似てはいけない生き方であると、森はおそらく冷静かつ合理的に判断したのである」とこれを評している。 その後、小島は1994年に鶴留厩舎所属のチョウカイキャロルに騎乗して優駿牝馬を制覇。競走後には「鶴留先生に恩返しができて良かった」と語った。翌1995年には、やはり鶴留厩舎のタヤスツヨシで2度目の日本ダービー制覇を果たし、史上10人目のダービー2勝騎手となった。 以後は若手騎手の台頭などもあり、1997年からは一桁の勝利数を続けた。1996年から調教師免許試験の受験を始めており、2001年に調教師免許を取得し、騎手を引退した。調教師試験の合格時の会見には戸山の未亡人も同席して喜びを共にした。騎手成績は通算4722戦495勝。そのうち重賞はG1競走5勝を含む27勝だった。
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