愛石家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
中国では、北宋(960–1127年)の頃から、盆石(現代日本語の水石)といって、山水の景色を想起させるような美石を愛でる趣味があり、日本へは鎌倉時代末期から南北朝時代ごろに、臨済宗の虎関師錬を代表とする禅僧によってもたらされた。唐物趣味で禅宗に深く帰依した後醍醐天皇もまた愛石家として「夢の浮橋」という名石を所持しており、徳川家康の手を経て、2019年現在は徳川美術館が所蔵している。名前の通り橋状の石で、一見すると底面が地に密着するように見えるが、実際は両端のわずかな部分が接地するだけで、しかも橋のように安定性がある。石底には朱漆で「夢の浮橋」の銘が書かれており、筆跡鑑定の結果、後醍醐天皇の自筆であると判明している。その銘は『源氏物語』最終巻の「夢浮橋」に由来すると考えられている。徳川美術館はこの石を「盆石中の王者」と評している。 伝承によれば、「夢の浮橋」は、中国江蘇省江寧山からもたらされた霊石であり、後醍醐天皇は元弘の乱で京都を離れた際にも、「夢の浮橋」を懐に入れて片時も手放さなかったと伝えられる。 後醍醐天皇が才覚を見出した石立僧(いしだてそう、自然石による作庭を得意とする仏僧)としては、臨済宗の夢窓疎石がいる。夢窓疎石はもと世俗での立身出世を嫌い、各地を転々として隠棲する禅僧であったが、正中2年(1325年)春、後醍醐天皇は夢窓を京都南禅寺に招こうとし、一度は断られたものの、再び執権北条高時を介して来京を願ったため、夢想はやむを得ず同年8月29日に上京し南禅寺に入った。この後、夢窓は執権高時の帰依をも受けるようになった。元弘の乱後、建武元年(1334年)9月に後醍醐天皇は正式に夢窓疎石に弟子入りし、建武2年(1335年)10月に「夢窓国師」の国師号を授けた。後醍醐天皇が崩御すると、夢窓疎石は足利尊氏・直義兄弟に後醍醐天皇への冥福を祈るように薦め、このため足利兄弟は夢窓を開山として天龍寺を創建した。夢窓は直義と協議して、天龍寺船を元に派遣して貿易の儲けで寺の建築費用を稼ぎ、自らの手で禅庭を設計した。1994年、夢窓疎石の天龍寺庭園は、「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」の一部として、ユネスコによって世界遺産に登録された。
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