秩父山地の亀甲石と脇水鉄五郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:38 UTC 版)
「上野村亀甲石産地」の記事における「秩父山地の亀甲石と脇水鉄五郎」の解説
亀甲石はアメリカやヨーロッパの各地では19世紀の地質学の教科書ではコンクリーションの一形態、セブタリア(septaria)として取り上げられるほど古くから知られていた。その一方で同時期の日本国内では一般にはほとんど知られておらず、上野村を含む奥秩父一帯にかけた山中から、亀甲状模様の岩石が産出することが古くから地元の人々の間では知られていたものの、主に秩父地方の素封家が収集し所持しているに過ぎなかったという。日本国内で亀甲石が学術的にはじめて報告されたのは、1907年(明治40年)のことで、地質学者の脇水鉄五郎により奥秩父の間明平(まみょうだいら、現埼玉県秩父郡小鹿野町三山)産出の亀甲石が学会へ報告されたのが最初である。 その後の地質学研究の発展により、今日では埼玉県北西部の奥秩父から群馬県南西部の上野村、長野県佐久地方へ続く地層(山中層)の中には類似する亀甲石だけでなく、貝類や植物の化石が多数含まれているものと推定されている。本来は地中深くの岩体中にある亀甲石のごく一部が、雨水や渓谷を流れる水の浸食作用で岩肌から転がり落ち、転石として河床に現れたものであるが、亀甲石はその特異な形状から人目に付きやすく、江戸時代後期には水石の収集対象として愛石家に珍重されており、脇水が報告した明治後期ではすでに、地表に現れていた大方の亀甲石は拾われ尽くされていたものと考えられている。
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