復刊後の『メルキュール・ド・フランス』
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「メルキュール・ド・フランス」の記事における「復刊後の『メルキュール・ド・フランス』」の解説
19世紀末、アルフレッド・ヴァレット(英語版)が、パリ6区のカフェ「ラ・メール・クラリス」に集まった象徴主義の詩人ら(ジャン・モレアス、エルネスト・レイノー(フランス語版)、ジュール・ルナール、レミ・ド・グールモン、ルイ・デュミュール(フランス語版)、アルフレッド・ジャリ、アルベール・サマン(フランス語版)、サン=ポル=ルー、アルベール・オーリエ、ジュリアン・ルクレルク(フランス語版))とともに文芸誌『メルキュール・ド・フランス』を再刊した。第1号は1890年1月1日に刊行された。 その後の10年間に、出版事業は成功し、ステファヌ・マラルメやジョゼ=マリア・ド・エレディア(英語版)といった詩人も新作を発表するようになった。1905年からは隔月刊となった。 1889年、アルフレッド・ヴァレットは、小説『ヴィーナス氏』が不道徳だとして非難を浴びた作家ラシルド(英語版)と結婚した。ラシルドは、1924年まで編集委員を務め、彼女の個性と作品も雑誌の知名度向上に貢献した。ラシルドは火曜日にサロンを開いて人を集め、この「メルキュールの火曜日」は作家たちの間で有名になった。 当時の他の批評誌と同様、『メルキュール』誌でも、1894年から書籍の出版を始めた。象徴派の作品のほか、フリードリヒ・ニーチェの最初の仏訳、アンドレ・ジッド、ポール・クローデル、シドニー=ガブリエル・コレット、ギヨーム・アポリネールの書き下ろし作品、トリスタン・クリングゾル(英語版)の詩などを刊行した。その後は、アンリ・ミショー、ピエール・ルヴェルディ、ピエール・ジャン・ジューブ、ルイ=ルネ・デ・フォレ、ピエール・クロソウスキー、アンドレ・デュ・ブーシェ(英語版)、ジョルジュ・セフェリ、ウジェーヌ・イヨネスコ、イヴ・ボヌフォワの著作などを出している。 1935年にヴァレットが死去すると、経営権は、1912年から編集に加わっていたジョルジュ・デュアメルに引き継がれた。1938年、デュアメルはその反戦姿勢が理由で更迭され、ジャック・ベルナール(英語版)がこれに代わった。ベルナールは、ドイツへの戦争協力を理由に逮捕され有罪判決を受けた。第2次世界大戦後、支配株主であったデュアメルは、レジスタンスに参加していたポール・アルトマンを経営者に指名した。 1958年、ガリマール出版社グループが『メルキュール・ド・フランス』を買収し、シモン・ガリマールが社長に任命された。1995年、イザベル・ガリマールが出版社の経営を引き継いだ。
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