後藤達太とは? わかりやすく解説

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後藤達太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/02 13:40 UTC 版)

後藤 達太(ごとう たつた、1923年10月7日 - 2016年3月31日)は日本大蔵官僚

来歴

東京府出身。府立一中一高を経て、1947年3月 東京帝国大学法学部法律学科卒業。同年12月 高等試験行政科を合格[1]大蔵省に入省し、初任配属は専売局長官官房総務課。同期入省組には、長岡實東証理事長、初代JT社長、大蔵事務次官、主計局長、大臣官房長、経済企画庁長官官房長)、三島由紀夫(小説家)、藤岡眞佐夫(アジア開発銀行総裁、国際金融局長)、渥美謙二(造幣局長)、亘理彰(内閣官房内閣審議室長、防衛事務次官)らがいる。1947年5月(前期)入省組には、大倉真隆横浜銀行頭取、大蔵事務次官、主税局長、国際金融局長)、吉田冨士雄エフエム富士会長、サントリー副社長、関税局長、国税庁次長)らがいる[1]

キャリア初期は税務関係の部署に複数所属し、延岡税務署長1951年6月)や国税庁長官官房総務課長補佐(1952年8月)を務めた。1955年6月に銀行局金融検査官 兼 銀行局検査部管理課長補佐に移ると約3年間銀行局に務め、以後も(途中経済企画庁総合計画局計画官や国際金融局国際収支課長、関税局国際課長も経験しながら)長く銀行局関連のポストに就く。1975年7月に関税局長ににり、1976年6月に銀行局長に就任した。1977年6月10日に退官する。

退官後、1977年10月から航空貨物通関情報処理センター理事長となる。

1979年6月 日本航空常務取締役となり、1984年1月 には専務取締役に首運した(同年5月まで)。同年6月 西日本銀行(現・西日本シティ銀行取締役会長に移り[要出典]1988年6月に頭取に就任した[2]1995年に再度取締役会長となる。2000年取締役相談役に退いた[2]。後藤は北九州財務局長時代に当時の福岡シティ銀行頭取の四島司と親交を持ち、相談役になったのちに四島との間で西日本シティ銀行につながる経営統合の話を進めていたという[2]

2016年3月31日、肺炎で死去。

官歴

人物

九州「正論」懇話会の設立に携わっていた[2]

大蔵省時代、上司に対しても歯に衣着せずに、正論をぶつけた。「けんか達太」の異名を取っていた[2]

日本棋院九州本部長をつとめ、2003年、大倉喜七郎賞を受賞した。

脚注

  1. ^ a b 『大蔵省人名録:明治・大正・昭和』大蔵財務協会、1973年1月、70頁
  2. ^ a b c d e “西日本シティ銀の礎築く 後藤達太氏死去 九州「正論」にも尽力”. 産経新聞. (2016年4月2日). https://www.sankei.com/article/20160402-IKJQ72OQQBIX3JAWQM2JO5RYPY/ 2021年12月24日閲覧。 
官職
先代
田辺博通
大蔵省銀行局長
1976年 - 1977年
次代
徳田博美
先代
吉田冨士雄
大蔵省関税局長
1975年 - 1976年
次代
旦弘昌
先代
岩瀬義郎
大蔵省大臣官房審議官銀行局担当)
1974年 - 1975年
次代
戸田嘉徳
先代
田辺博通
大蔵省銀行局総務課長
1969年 - 1970年
次代
磯邊律男
ビジネス
先代
市川慶三
西日本銀行頭取
1988年 - 1995年
次代
古賀誠二



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