強学会と『時務報』とは? わかりやすく解説

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強学会と『時務報』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:38 UTC 版)

黄遵憲」の記事における「強学会と『時務報』」の解説

日清戦争のさなか、黄遵憲シンガポール総領事の任を終え帰国したが、以後中国国内地方官職を歴任することになる。帰国後、張之洞からの依頼により江寧洋務局の總弁引き受け未解決教案反キリスト事件)の処理に取り組んだ日清戦争敗北アヘン戦争よりも大きな衝撃清朝知識人与えたが、黄遵憲もその一人であった戦後下関条約締結反対する人々集まり富国強兵への道を探る強学会という団体上海立ち上げられたが、黄遵憲もそれに参加した。この時康有為こうゆうい)や梁啓超りょうけいちょう)と出会い、その政治改革思想共感するのである。特に梁啓超とは親しく生涯変わらぬ交友続けることになる。『日本国志』は皮肉にもこの敗戦によって漸く脚光を浴びるようになり、梁啓超の序を付して増訂版が刊行された。 強学会はさして活動するまもなく李鴻章睨まれ閉鎖され機関誌『強学報』(きょうがくほう)も停刊余儀なくされる。しかしすぐさま後継紙として旬刊の『時務報』(じむほう)が創刊された。この『時務報』の設立には深く黄遵憲関与しており、彼の資金援助によってはじめられたものである梁啓超主筆招き立憲君主制宣伝鼓吹する論説や、日本はじめとする外国新聞雑誌時事問題記事翻訳して掲載したこのうち日本雑誌新聞からの翻訳には古城貞吉あたったが、彼も黄遵憲が見つけてきた人材であった雑誌変法思想広め媒体として大いに力があり、後の戊戌変法ぼじゅつへんぽう)を準備するのである同時期、日本戦勝余勢を駆って蘇州杭州租界をつくることを要求した南洋大臣劉坤一のもと黄遵憲上海総領事珍田捨巳折衝し新し条約案を作成したが、清朝上層部によって黙殺された。なお、上記古城貞吉は珍田の紹介知り合ったのである

※この「強学会と『時務報』」の解説は、「黄遵憲」の解説の一部です。
「強学会と『時務報』」を含む「黄遵憲」の記事については、「黄遵憲」の概要を参照ください。

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