強学会と『時務報』
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日清戦争のさなか、黄遵憲はシンガポール総領事の任を終え帰国したが、以後中国国内の地方官職を歴任することになる。帰国後、張之洞からの依頼により江寧洋務局の總弁を引き受け、未解決の教案(反キリスト教事件)の処理に取り組んだ。 日清戦争の敗北はアヘン戦争よりも大きな衝撃を清朝の知識人に与えたが、黄遵憲もその一人であった。戦後、下関条約締結に反対する人々が集まり、富国強兵への道を探る強学会という団体が上海に立ち上げられたが、黄遵憲もそれに参加した。この時康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)と出会い、その政治改革思想に共感するのである。特に梁啓超とは親しく、生涯変わらぬ交友を続けることになる。『日本国志』は皮肉にもこの敗戦によって漸く脚光を浴びるようになり、梁啓超の序を付して増訂版が刊行された。 強学会はさして活動するまもなく李鴻章に睨まれて閉鎖され、機関誌『強学報』(きょうがくほう)も停刊を余儀なくされる。しかしすぐさま後継紙として旬刊の『時務報』(じむほう)が創刊された。この『時務報』の設立には深く黄遵憲が関与しており、彼の資金援助によってはじめられたものである。梁啓超を主筆に招き、立憲君主制を宣伝鼓吹する論説や、日本をはじめとする外国新聞雑誌の時事問題記事を翻訳して掲載した。このうち日本の雑誌・新聞からの翻訳には古城貞吉があたったが、彼も黄遵憲が見つけてきた人材であった。雑誌は変法思想を広める媒体として大いに力があり、後の戊戌変法(ぼじゅつへんぽう)を準備するのである。 同時期、日本は戦勝の余勢を駆って蘇州・杭州に租界をつくることを要求した。南洋大臣劉坤一のもと黄遵憲は上海総領事珍田捨巳と折衝し新しい条約案を作成したが、清朝上層部によって黙殺された。なお、上記の古城貞吉は珍田の紹介で知り合ったものである。
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